尊王志士と幕府の遷都論

 まずは、遷都論そのものの変遷を確認しておこう。江戸時代中期から後期にかけて、例えば、国学者の賀茂真淵や経世家の佐藤信淵が江戸を意識した遷都論や二都論を唱えていた。幕末以降の遷都先として、当初は江戸ではなく大坂が最有力候補として検討されていた。面白いことに、最初に遷都を言い出したのは尊王志士であった。それは、大坂遷都論として登場するが、福岡藩士の平野国臣は文久2年(1862)4月に著した「回天三策」において、次のように述べる。

 大坂滞在中の薩摩藩の最高権力者の島津久光に勅命を与え、大坂城、彦根城、二条城を草莽義挙によって攻め落させ、久光は司令官として入京の上、幕吏を追い払って青蓮院宮(中川宮)の幽閉を解き、大坂城に玉座を奉じさせる。孝明天皇は東国の親征に向かい、箱根にて将軍家に罪を糺して諸侯の列に貶(おとし)め、抵抗する時は武力によって成敗するとしている。正確に言えば、遷都論ではなく、親征行幸であり倒幕に向けた戦略論であろう。

平野国臣

 久留米藩士の真木和泉は文久3年(1863)7月に著した「五事献策」において、遷都とは明言してないが、遷都論として重要である。大事業をなすため、「旧套(きゅうとう)」(古くからの形式や慣習)を脱する必要があり、そのため従来の居を離れる必要があるとする。そして、大坂は天下の要地で商業・流通の中心であり、諸侯を制御するために便利である。何より、「夷狄御(いてきぎょ)する」(攘夷実行)ために大坂は利があるとして、大坂遷都論を展開したのだ。

久留米水天宮にある真木和泉守の像

 では、幕府においてはどうであったのだろうか。慶應3年(1867)10月14日、将軍徳川慶喜は大政奉還を朝廷に申し出た。その段階で、西周(あまね)が江戸から大坂に首都機能を移して、大君(将軍)を元首とした公府を大坂に置くことを提案している。まさに江戸から大坂に政府(幕府機構)を移転する大坂遷都論を展開したが、新政府の樹立に伴い、その構想は実現に至らなかった。

西周

薩摩藩士・伊地知正治の遷都論

 幕府に対抗する薩摩藩や長州藩においても、遷都論は活発であった。同時期に薩摩藩士伊地知正治の「浪華遷都論」があり、これが大久保利通にそのまま引き継がれることになる。その直前に、薩摩藩士で文久期の島津久光四天王(他に小松帯刀・大久保利通・中山中左衛門)の一人、伊地知貞馨(堀次郎)による大和(奈良)、長州藩士品川弥二郎・世良修蔵による伏見桃山などが遷都先として候補に挙がったが、個人的レベルの域を出なかった。それでは、伊地知正治の浪華遷都論を詳しく見ていこう。

 伊地知は、京都は土地が偏っていて狭い上、人気(土地の気風)が狭苦しいと京都を批判し、そうでない大坂を推薦する。そして、世界各国の「王都」と比較し、宮殿(皇居)の規模も意識する。伊地知は海外渡航の経験はないものの、薩摩藩の留学生から海外の情報を得て、それを基に発言していると推察される。伊地知は「王都」と表現し、首都とは表現していない。これは単に政治的な中心都市ではなく、国王が居住し、かつ政治の中心となっている都・帝都を想定しているからである。将来の海外進出を意識して、それに適した地であることを希望し、海に面した大坂を推している。

伊地知正治

 伊地知は、ありとあらゆる因循(いんじゅん/旧例にこだわって改革をしないこと)から脱却するためには、京都を離れることが必須であるとし、どうしても遷都が必要との発想から、この遷都論を展開した。大坂はご存じの通り、江戸時代を通じて天下の台所として富の集積があった。さらに海運が発達して、商業・流通の中心として存在し、海に面して外交にも利便性が抜群であることが、当時は大きな魅力に映ったのだ。