「千葉城」と千葉常胤の銅像 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

もともとは天守のない城

「鎌倉殿への道」第11回(9月17日公開)で千葉常胤が登場したついでに、今回は千葉城を紹介してみたい。なお、以下の説明中にはお城用語がいくつか出てくるが、これらについては拙著『1からわかる日本の城』を参照されたい。

 JR千葉駅前からバスに乗り「郷土博物館」で降りると、城はすぐだ。というか、千葉市立郷土博物館がすなわち、千葉城なのである。察しのよい読者ならピンときたかもしれないが、写真の千葉城天守は、1967年に郷土博物館として鉄筋コンクリートで建てられた模擬天守である。ここは、もともと天守のない城だったのである。

 外観4重のコンクリ天守は、デザインからいうと「層塔型」と呼ばれるタイプに属する。いろいろな角度から眺めてみると、なかなか恰好がよくサマになっている。コンクリ製ではあるが、破風のレイアウトと逓減率のバランスがとれているからだ。

白亜の4重天守は鉄筋コンクリート製だが、千鳥破風や唐破風をバランスよく配してデザイン的なまとまりはよい。

 しいて指摘するなら、窓の数が多すぎて、開口部も大きすぎるのだが、これはコンクリ天守全般にいえることだ。天守はもともとが軍事施設なので、戦闘力や耐火性を優先させて、窓は数もサイズも最低限とする。ところが、文化施設や観光施設として建てられたコンクリ天守では、採光や通風の都合から、窓が大きく多めに作られる。

 もうひとつ、天守台の石垣に違和感がある。この石垣は、全体としては四角い切石を規則的にならべた、切込ハギ・布積となっており、隅の部分は城の石垣らしく算木積になっている。ただし、切込ハギ・布積の石垣では算木積の両サイドに角脇石がキッチリ入るのがセオリーだから、この積み方は城の石垣としてはありえない。

現代工法で造られた天守台は石垣というより、石垣風の天守台座。目地が横に通る切込ハギ・布積なら、角脇石は2石きっちり入るのが城石垣のセオリー。

 まあ、このあたりは、現代の工法で当時の石垣を再現するのが、そもそも難しいのであって、窓と同様、コンクリ天守に共通のウィークポイントといえる。また、コンクリ天守が建てられた当時の研究水準を考えるなら、角脇石まで再現するのは無理といえよう。

 さて、この千葉城天守の入り口付近には、とてもカッコイイ千葉常胤の銅像が立っている。では、千葉常胤が千葉城にいたのかというと、これが難しいところだ。いまの千葉城がある場所は、もともとは猪鼻台(亥鼻台・いのはなだい)と呼ばれる高台で、正確にいうなら、台地の先端部にあたっている。

一帯は亥鼻台公園となっており、亥鼻城(猪鼻城)の説明板も立っている。説明板の後ろに土塁があるのがわかるかな?

 猪鼻台には確かに猪鼻城があったのだが、戦国時代の初期に千葉氏の子孫が築いたもので、常胤が築いたわけではない。現在の研究では、鎌倉時代の千葉氏の本拠地は別の場所、という説が有力だ。つまり、千葉城(猪鼻城)と千葉常胤には、何の関係もないのである。がっかりしましたか?

猪鼻城本丸の土塁越しに見たコンクリ天守(市立郷土博物館)。本丸を囲む土塁がしっかり残っているのだが、訪れる人のほとんどは城の遺構として認識していない。

 ただし、ここからが本題だ。 天守の西側の公園は、戦国時代の猪鼻城の本丸で、いまでも当時の土塁がしっかり残っている。さらによく見ると、本丸の北西側には堀切があって、その先には本丸の背後を防備する小さな曲輪も残っている。このあたりを歩くと、猪鼻台と呼ばれた台地の先端が、攻めにくく守りやすい地形だったことも、見て取れる。

本丸の背後を守る堀切。グンと下がって、堀底からまた上がった先に小さな曲輪がつづいている。これは貴重な遺構だ。

 政令指定都市となっている県庁所在地の中心部に、戦国時代の城の遺構がこれだけ残っているのは、かなり貴重だ。ただ、訪れる人のほとんどは「城=天守閣」だと思っているから、郷土資料館のコンクリ天守だけ見て帰ってしまう。なんと、もったいない!

 千葉城は、城好き・歴史好きの方なら、一見の価値がある城なのである。

※「鎌倉殿への道」次回(第13回)は10月7日に掲載予定。