リオデジャネイロで開かれた2016年のパラリンピック開会式(2016年9月7日、写真:アフロスポーツ)

57年ぶりの東京「国際身障者スポーツ大会」

「障害者のスポーツの祭典」パラリンピックが57年ぶりに東京に帰ってきた。大きく逞しくなって帰ってきた。

 第1回パラリンピックは、1968年11月8日、東京五輪の余韻が残る代々木選手村の織田フィールドに集合した22か国の車椅子選手による「国際身障者スポーツ大会」だった。

 東京パラリンピックは159の国・地域から4400人が参加、22競技・537種目で世界一を決める。

 新型コロナウイルス感染拡大の中で開催が1年延期される中で身体の一部に障害のあるアスリートたちは、孤独と不安感と戦いながら鍛錬を積んできたに違いない。

 その厳しさは五輪選手以上だったといっても過言ではないだろう。

 ともすればパラリンピックは五輪の「付属物」のように思われてきた。だが、今や財政基盤もしっかりした独立のスポーツの祭典だ。

 開催国選定を含め、五輪とは協力はするが、時として独自の判断も行ってきた。

 2028年のロサンゼルス五輪までは、パラリンピックは五輪開催国で行われるが、それ以降は決まっていない。五輪委員会とは2032年まで同じ開催国でパラリンピックをやることでは合意している。

 五輪委員会のトーマス・バッハ会長(ドイツ人)は、国ぐるみのドーピング体質が露呈したロシアの東京五輪参加を退けたが、ロシア選手を「ロシア五輪委員会」所属ということで参加を認めた。

 これに対し、パラリンピック委員会のアンドルー・パーソンズ会長*1(ブラジル人)はロシア選手の東京参加を全面的に拒否している。

「ドーピングはスポーツに対する犯罪行為だ。ロシア五輪委員会はロシアという国家の一部ではないか」(パーソンズ氏)

*1=パーソンズ氏 (44) にとって東京パラリンは会長就任初の初仕事だ。大卒後、ブラジル・パライン委員会に就職、それ以降パラリンピック事務一筋でやってきた。車椅子バスケットボールのヒーローで「パラリンピックの中興の祖」、フィリップ・クレイベン卿(英国人)から絶大な信頼を受け、会長に推挙された。自身、身障者スポーツマンではない。