(町田 明広:歴史学者)
評価が割れる徳川慶喜の人物像
徳川慶喜(1837~1913)は、誰もがご存じの「最後の将軍」である。江戸幕府の最後の征夷大将軍としての第15代将軍であるとともに、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた源頼朝から始まる、700年にわたった武家政権における最後の将軍でもあるのだ。
幕末とは、一般的には嘉永6年(1853)6月のペリーが来航から始まり、慶応3年(1867)の王政復古クーデター、または明治元年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いまでとされる場合が多い。この間、僅か15年である。
短期間に多くの人物が登場し、また事件が頻発する。しかし、この間を通じて登場する人物はほぼ存在しないが、数少ない人物として松平春嶽、そして慶喜が挙げられるのではなかろうか。しかも、慶喜は主役級の役割を果たし続ける。つまり、慶喜の生涯を追うことは、幕末史を語ることに他ならない。
ところで、慶喜ほど評価が分かれる人物も珍しいかも知れない。大政奉還を成し遂げ、新政府に恭順を貫いて内乱を防いだ名君として評価される一方で、政権を投げ出し抵抗もせずに降伏した暗君として語られることも少なくない。その背景として、慶喜は自分の言葉で語ることが少なく、そのため真意が伝わり難いことが挙げられよう。その結果、慶喜は極めて分かり難い人物となっているのだ。
今回から始まる6回にわたる連載の中では、これほどの重要人物でありながら、十分に理解されてこなかった明治維新史の大巨人である徳川慶喜を取り上げたい。慶喜の幕末期の人生を追いながら、分かり難い人物像を解きほぐし、評価が分かれる慶喜の実像に迫りたい。