国家の乱用と私権の制限

 新法の閣議決定(3月26日)以降、批判的な記事が大量に出回り、見出しには〈土地規制法〉と〈土地利用規制法〉が躍った。

「実際に外国資本により国民の安全が脅かされたケースを政府は明示していない」(NHK3月30日)、「最大の懸念は、調査が際限なく広がる恐れがあることだ。・・・国会のチェックは及ばず、政府のさじ加減ひとつでいかようにもなる」(朝日新聞4月3日)、「妨害工作を防ぐ安全保障上の目的というが、私権を侵害し、正当な経済、活動も制限しかねない危うさがある」(東京新聞4月7日)。

 新法は、実質的には「外資買収規制」であり、安全保障の観点から不安視されたゆえ、制定されたものだ。だが、審議過程でいつのまにか〈自国民の私権制限〉に直結する悪法だとのイメージが一人歩きし、それが論点にされていった。特定イメージを刷り込むための印象操作と、論点ずらしのための恣意的な世論誘導が続けられたと解される。

 その影響を危ぶむ識者もいる。

「今後も反対者たちは、『新法は治安維持法と同じ効力を持つ』とみなし、法の適用を妨害し続けるのではないか・・・」

 きちんと抗することができるよう〈国家と私権〉の関係について、改めて考え直しておきたい。

 今回の新法「重要土地等調査法」の制定背景は、何者かが巧妙にかつ秘匿しつつ、我が子らが持つ敷地(国土)を買収(簒奪)しはじめているのに、親(国家)がその土地への立ち入り禁止を言い渡されそうになっているというものだ。こうした惨状の中、「親として、これではまずい。どれだけ買収されているか? 金庫や通帳、ハンコは大丈夫か? PCはハッキングされていないか? それを今、調べておかないと・・・」という主旨で制定されてい る。

 国家と私(権)の関係を親子の関係に喩えるなら、子は、その親の庇護がなければ何もできないということを知るべきだろう。いつまでも三歳児が親に駄々をこねていてはいけない。

 にもかかわらず、新法を阻止したい人たちの言い分は、「子供には個人情報があり、プライバシーもある。それは絶対的なものだから、覗くことなど一切許されない」という主張である。背景には、「国家(権利)よりも、私権が優越するという思想」があるからではないか。子(個)は親(集団)と同格か、それ以上のものであるという考え方だ。

 改めて問われるべきは、国家と私権について、「私権が常に優越するものではない」「国家(の庇護)があってはじめて私権がある」という道理である。

 もちろん、国家による〈権力の乱用〉があってはならず、〈私権の制限〉にも限度がある。しかし、この両者の関係が昨今の日本では揺らいでいて、明らかに歪になっている。コロナ禍で浮き彫りになったのは、「ロックダウンを宣言し、違反者から罰金が徴収できる先進各国」と、「国民に自粛を要請し、協力金をバラまくことで抑えようとする日本」の相違である。

 憲法問題にまで及ぶこうした根本的な権利にかかる議論をいつまでも放置し、避けていてはいけないだろう。「現憲法は是正しない、論議さえしない」との頑な姿勢を通し、政府までもが「目先の金儲けしか興味がない」とすれば、日本は国家間レベルでの相対的な統治強度を失い、国家として溶けていくしかないだろう。

 駄々をこねるだけでなく、国籍不問で無差別な私権まで認めるべきだと言い続けるなら、国家の溶解時期は早まるだけだ。「そうなってもかまわない。国家に期待などしない」という国民が増えているのが心配だ。このままでは未来の日本人が可哀そうだ。