「勝つ」こだわりの原点

 わたしが現役生活をとおして絶対に譲らなかったことが「勝つこと」に対するこだわりだった。

 特に若い頃は勝つことが唯一の真理。

 結果だけがすべて。

 だから学生からトヨタ時代まで「スタッツ」(得点数や試合時間などの記録に残るデータ)にこだわった。チームの中心選手(得点の第一オプション)であるわたしの数字が良ければ、勝つ確率は上がる。ひとつの戦略だ。

 だから勝つことに対しては、徹底的に考え抜き、行動に移してきたつもりである(その思いが強すぎて、かなり視野が狭くなっていたことは否めないが)。

 勝利にこだわり始めた原体験は、大学時代にさかのぼる。

 大学4年、学生生活最後の試合。それがインカレ(インターカレッジの略。全日本大学バスケットボール選手権大会)の決勝だった。

 残り14秒。

 パスの出し所を探した。

 それを見つけた瞬間、胸が高鳴った。

 相手のマークが乱れ、スリーポイントエリアで日向寺修がフリーになっていたのだ。

 まさに、ラストチャンスだった。

 1992年12月5日、日本大学バスケットボール部キャプテンとして最後の試合。相手は、日体大(日本体育大学)。

 勝てば日本一。だが、そんなことはどうでも良かった。

 日体大に勝つ。思いはそれだけだった。

 当時の大学バスケットボール界は、日体大と日大が圧倒的な〝2強〟として力を示していた。ほかの大学には、まったく負ける気がしなかった。実際、負けることもなかった。

 だが、日体大だけには勝つことができなかった。

 わたしは3年時から中心選手として出場していたが、その際のインカレ決勝でも、20点差をひっくり返された。愕がく然ぜんとした。奈落に突き落とされたような気持ちだった。

 「もう、あんな思いはしたくない」

 「俺の代になったら、必ず日体大に勝つ」

 そう誓い、ひたすらシュートを打ち、走り込んできた。しかし、関東トーナメントでも、リーグ戦でも、彼らの壁を超えることはできなかった。しかも、そのすべてが1点差か2点差での敗戦。悔しさを晴らすための舞台は、このインカレしか残っていなかった。

 追い掛けて、つかみかけてはスルリと逃げていった勝利。

 そこへの道筋が開けた瞬間だった。