ミャンマーのインセイン刑務所で味わった屈辱
刑を宣告されて行った先は、ミャンマー北部にある刑務所だった。やせ衰えた私の体はシラミに襲われた。夜になると、2分ごとに真竹の筒で激しく叩く音がして眠れない。
しかし3日も経つと、睡眠不足だった私にはその音が子守歌に聞こえてきた。眠らなければ死んでしまうから。食事は1日2回。稲わらの混ざった南京米が一握り、見たことのない野菜の入った酸っぱいスープ、塩の塊が入った漬物3グラムだけだった。
つらかったのは、それだけではない。ミャンマー語も文字も分からないからコミュニケーションが取れないのだ。
ある日、井戸の近くで洗濯をしていたら、いきなり首筋を叩かれた。焼きごてで焼かれたかのように痛かった。叩いた人は「洗濯禁止」と書かれた札を指さしながら首を横に振ったが、私にはふにゃふにゃした模様にしか見えない。私は黙って立ち上がり、その場を立ち去るしかなかった。
56歳にもなって、ミャンマー人の囚人に叩かれるとは無念だった。悔しかった。悲しかった。死にたかった。それでも耐えなければならない。というより、耐えるしかなかった。
忍耐の1年が過ぎると、日本と韓国の大使館関係者が会いにやってきた。私はその面談で目的地を日本から韓国に変更した。その時点で韓国は多くの脱北者を受け入れていたからだ。
韓国大使館の要請により、私はヤンゴン郊外に位置するインセイン刑務所に移送された。理由はよく分からないが、恐らく首都に近い刑務所だからだろう。14世紀、米国に売り飛ばされた黒人奴隷みたいだ、と思った。
青い囚人服のシャツ、サロンスカートのようなミャンマーの伝統衣装「ロンジ―」を履き、足首には丸鋼の足かせがはめられていた。両足の足かせは1メートルの丸鋼でつながれている。その丸鋼を、手錠された両手で握り、短い歩幅で歩かなければならない。
両手と両足を縛られたまま、ヤンゴンまで飛行機に乗った。生まれて初めての飛行機。本来なら感慨深い初フライトだが、私は囚人の立場だ。手足を鉄で縛られた自分があまりにも惨めで、死んでしまいたくなった。
三重の壁に囲まれた刑務所に入ると、やっと足かせと手錠を外してもらえた。非人間的な刑務所として悪名高いインセイン円形刑務所で、私は殺人犯や麻薬中毒者と同じ扱いを受けながら、2年6カ月を過ごすことになる。やつれた体に寄生するシラミ、顔を這うゴキブリ、悪臭を漂わせながら人間の体に噛み付く南京虫、たった一握りの南京米、叩かれた時に焼きごてを押しつけられたかのような首の痛み・・・。これらのすべてに耐えながら。
その間も「北朝鮮送り」という言葉が頭を離れず、私は魂の抜けた虫けらのようになった。悲惨な毎日だったが、しっかりしなくてはと思った。「生き残らなければならない。南京米を食べて、体を鍛えて、チャンスが来たら逃げよう」という目標を持った。