46年ぶりに訪れた故郷の下関

 北朝鮮にいた頃、噂で聞いていた韓国の経済発展と福祉を目にし、衝撃を受けた。ハナ院を出る時は定着金が支給され、6カ月間は基礎生活受給(生活保護費)をもらうことができた。家も支給された。36歳以下であれば、大学に通う学費も支援してもらえる。私は大学には行けないものの、国費でパソコンスクールや、職業相談員と療養保護士の養成学校に通うことができた。

 北朝鮮では医師だったから医療界に就職したかったが、すべて断られた。北朝鮮は理論と医療経験を元に患者を治療するが、韓国は最新の医療設備を元に治療するシステムだ。学歴は認めてもらったが、資格は認めてもらえなかった。だから韓国では医師として働くことはできない。

 資本主義社会では、短時間で最高の能率を上げられる専門家が求められる。58歳という年齢で就職するのは難しかった。私にできるのは3Kの業種しかなかった。日雇いで道路の修理をしてみたが、1日働くと3日寝込んでしまう。年老いた今は、基礎生活受給者(生活保護者)となり、一市民として生活している。

 住む家があり、24時間、自由に使える水道もあり、ガスレンジ、電子レンジ、洗濯機、炊飯器もあり、楽な生活を送っている。私にとってここは天国だ。

 あくせく働きながら生きていた時は体が痛くなることはなかったのに、生活に余裕ができるとあちこちが痛くなってくるから不思議なものだ。でも、病院はデジタル化されていて、看護師も医師も親切だ。治療も無料、薬も無料。北朝鮮は「無償治療」「無料教育」であり、韓国は「腐って病んだ資本主義」と聞いていたが、いざ来てみると、韓国こそあらゆる福祉施設が整った天国だった。

 韓国に来て、私は真っ先にパスポートを作った。世界を自由に行き来できる権利があるのなら、故郷を訪れたいと思ったのだ。最初に行ったのは私の故郷、下関だった。福岡から湯布院温泉に行き、門司港を経て「唐戸市場」や下関駅に行った。46年ぶりに故郷の家を探すには基準点が必要だ。私にとってその基準点は関釜連絡船の船着き場だった。

 数十年経っても海だけは変わらない、と思っていたが違った。故郷の家のすぐ前に船着き場があったが、それがなくなっていたのだ。ショックだった。「10年経てば川も山も変わる」という言葉があるが、「海が変わる」とは言わない。なのに、海もなくなり、船着き場もなくなっていた。いろいろな人に尋ね回ったところ、海を埋めて、4キロ離れた場所にトンネルを作ったと聞いた。

 母と姉も一緒に来られたら、どれだけよかっただろうか。海まで変わってしまった母国。日本の過去と今の現実を姉と母に見せてあげたかった。子供の頃は大きくて長く見えたトンネルも、年取ってから見ると何もかもが小さかった。町も小さく、売店も小さく、ホテルの部屋も小さかった。しかし、日本は親切と思いやりにあふれていた。道を聞けば、誰もが足を止めて道を案内してくれた。

 私は46年ぶりに故郷の空気を吸い込み、母の友人に会った。なんとなく亡くなった母が生き返ったような気がして嬉しかった。私は嬉しさと名残惜しさを残し、韓国に帰ってきた。