2年6カ月ぶりに感じた羞恥心

 2009年3月6日。「不法入国罪」を宣告された3年の刑が終わると、韓国大使館の関係者が訪ねてきた。それまでの数回にわたる面談で、「故郷に帰ってきた帰郷者として私を受け入れてほしい」と数十回、お願いしていたが、何の返事もなかった。ところが、その日は確信に満ちた口振りで言われた。「急いで準備して韓国に行きましょう」。このひと言で、北極の氷が溶けるように不安も消えていった。

 すぐに空港に向かった。途中、車の中から街を眺めた。アスファルトの敷かれていない土埃の立つ道、真っ黒に焼けた顔、大声で物を売る女性たち。すべてが活気にあふれ、何もかもが美しく見えた。刑務所に入る時と出る時とでは、こんなにも違うものなのか。

 予約されていた飛行機のチケットを手に、領事に案内されて機内に入った。2度目のフライトだった。最初は囚人として、次は自由の身で。

 出所した時の私は、囚人の友人がくれた色褪せたストライプ模様のシャツを着て、脱北してきた時の日本製のズボンと、領事が買ってきてくれた青い運動靴を履いていた。短く刈られた髪の毛には白髪が交ざっていた。飛行機の隣の座席には30代初めくらいの女性が座っていた。私はみすぼらしい自分の姿が恥ずかしかった。2年6カ月ぶりに感じる羞恥心だった。人間が恥ずかしいと思うのは、生きているという証拠だ。

 韓国の仁川空港に着くと、「審問センター」に向かった。ここでスパイではないか身元を確認される。その1カ月後、韓国に定着するための教育を受ける機関「ハナ院」に送られた。3カ月間、韓国の歴史や生活方式などを学ぶのだ。ここでも朝晩の点検、日課に沿った学習と運動時間、休憩時間があった。

 北朝鮮の人民学校、軍生活、大学生活はもちろん、病院に勤めていた時もミャンマーの刑務所にいた時も、韓国の審問センターとハナ院でも、朝晩の点検は続いた。朝会と点検は統制の手段である。

 ハナ院では、ユニホームと生活必需品が渡された。食事は食べ放題で、1人あたり10万ウォンの生活費が支給される。ここでも私たちは鉄条網の中で生活しなければならなかったが、売店ではタバコと生活必需品を購入できた。北朝鮮での生活、ミャンマーの刑務所では「不便だ」とか「足りない」などと感じたが、ハナ院での生活は豊かに感じた。

脱北者向けの定着支援センター、ハナ院でトレーニングを受ける脱北者(写真:ロイター/アフロ)