(田丸 昇:棋士)
将棋史に残る昭和50年の名人戦
85年の歴史がある名人戦では、さまざまな名勝負が繰り広げられてきた。中でも将棋史に残る激闘として、今でも語り草になっているのが1975年(昭和50)の名人戦だった。
中原誠名人(当時27)に大内延介八段(同33)が挑戦した勝負は3勝3敗と拮抗し、最終の第7局を私こと田丸五段(同25)が記録係を務めた。盤側からつぶさに見た両者の戦いぶりを振り返ってみる。
当時は邪道だった「穴熊」
中原名人は、泰然とした趣や大河のような将棋から「自然流」と呼ばれた。1972年から名人戦で3連覇し、中原時代を着々と築いていた。
大内八段は、江戸っ子らしい気風の良さと豪快な将棋から「怒濤(どとう)流」と呼ばれた。名人戦で初めて挑戦者になった。
上の写真は、大内が武器にしていた「穴熊」という囲い。玉を隅に収め、金銀で回りを固める、難攻不落の守りである。ただ当時のプロ棋界では異端視されていて、「邪道」であるとの風潮だった。
しかし、大内は穴熊を採用する根拠として、ひとつの技術革新という自負を持っていた。実際に現代では、多くの棋士が公式戦で穴熊を用いていて、主要戦法として定着している。
戦前の予想では、中原防衛の声が多かった。対戦成績で大内に6連勝していたからだ。その大内は「中原さんの長期政権が続くのは、追う者の成長がないからだ。将棋を進歩させるためにも、それを阻止したい」と、意気込みを語った。
将棋を愛好していた作家の山口瞳さん(同51)は、「大内さんは中原さんに対して苦手意識を持っていない。ずばり言って4勝2敗で大内さんが勝つ」と、『週刊新潮』の随筆で予想した。
中原―大内の名人戦に、メディアも大いに注目した。『夕刊フジ』は「中原自然流vs.大内怒濤流」という見出しを掲げ、対決ムードをあおった。将棋とはあまり縁がなかった『月刊プレイボーイ』は、グラビアと記事で特集した。NHKや民放テレビもニュースで報道した。