バルト海はヨーロッパ大陸とスカンジナビア半島にぐるりと囲まれるようにして存在する海域です。周囲の国を西から時計回りにあげると、スウェーデン、フィンランド、ロシア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ドイツ、デンマークという具合になります。
読者の皆さんは、このバルト海にどのような印象をお持ちでしょうか? 「あまり馴染みがないのでピンとこない」という人も多いかもしれません。
しかし実は世界史において、この海はその覇権を巡って争いが展開されてきた場所なのです。特にロシアとスウェーデンとは国家の命運をかけて激しく衝突してきました。
ロシアにとって、バルト海は西欧に出ていくための窓口として非常に重要な海でした。ロシアではピョートル1世(1672-1725)の時代から、ネヴァ川河口の三角州に位置し、バルト海東岸に面するサンクトペテルブルクを「西欧への窓」と呼んでいました。サンクトペテルブルクは西欧文化を取り入れるための拠点として建設された街だったのです。
だいぶ後のことですが、日露戦争のとき、ロシアのバルチック艦隊が日本に向けて出発したのもバルト海からでした。「バルチック艦隊」とは「バルト海(Baltic Sea)の艦隊」という意味です。バルト海は、ロシアにとって重要な海の玄関口でした。バルチック艦隊はこの海を守るための、ロシアが誇る巨大艦隊だったのです。それだけに、この海の覇権を維持できるか否かは国家の命運を左右する大問題だったのです。
それは北欧諸国にとっても同様でした。というのも、スカンジナビア半島は気候が寒冷で土地も肥沃でなく、穀物の生産にあまり適した風土ではありませんでした。そのため、この地の人々はバルト海での漁業や、バルト海を利用した交易や海運に注力したのです。中でもスウェーデンは、バルト海に大きな勢力圏を構築しました。現在のイメージからは想像することが難しいかもしれませんが、17世紀後半にはヨーロッパを代表する軍事大国でした。スウェーデンは武力を背景に、バルト海に覇権を打ち立てたのです。
その存在は、ロシアにとっては西欧進出の障害以外の何物でもありません。ロシアとスウェーデンの衝突は必至だったのです。
第三のローマ
ソヴィエト時代初期の有名な映画に、モスクワ大公国(現ロシア)のイヴァン4世(1530-1584)を描いた『イワン雷帝』があります。その映画の中に、モスクワを「第三のローマだ」と称するセリフがあります。
オスマン帝国の侵攻によって、1453年に東ローマ帝国が滅亡します。これによりギリシア正教の中心地で東ローマ帝国の首都だったコンスタンティノープルが、今度はオスマン帝国の首都となってしまいます。
こうした中、1472年にはモスクワ大公国のイヴァン3世(1440-1505)が、東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪と結婚し、東ローマ帝国の後継者であることを宣言、さらに正教会の保護者をも自認するようになります。これにより、モスクワ大公国の地位は大きく上昇しました。