ポルトガルの首都リスボンの街並み

 ポルトガルという国は、「大航海時代の先鞭をつけたが、その後オランダやイギリスによって駆逐されていった国」という、いささかネガティヴな評価がされ続けてきたように思います。

 確かに、アジアにもっていた植民地を次々にオランダやイギリスに奪われたことで、国家としてのポルトガルは弱体化していきました。しかしそれとは別に、ポルトガルの商人たちは、国家から自立した独自のネットワークを築き、その力はなかなか衰えなかったというのが現在の歴史学界での一致した意見です。

 今回は、その逞しきポルトガル商人の活動について触れてみたいと思います。

ヨーロッパの先陣を切ってアジア進出

 ポルトガルの商業が発展する大きな契機となったのは、1488年のポルトガル人バルトロメウ・ディアスによる喜望峰発見と、それに続く1498年のヴァスコ・ダ・ガマによるインドのカリカット(コーリコード)への到達と言えます。この2つの経験により、ポルトガルはアジアへの進出を本格的に開始するようになります。

 ただし当時のインド洋は、イスラム商人が席巻していました。南インドから輸入した香辛料などをアラビア海、紅海を経て東地中海まで運んでいたのが彼らです。その品物はヴェネツィアやジェノヴァのイタリア商人の手に渡り、そこからヨーロッパ各地に流通していました。いわゆるレヴァント貿易です。

 このレヴァント貿易が15世紀の半ばに変容します。ヨーロッパからアジアにかけて版図を広げたオスマン帝国、さらにそのオスマン帝国と手を組んだヴェネツィアが貿易を独占するようになり、ヨーロッパ各国の不満が高まっていました。

 そうした中で、ヨーロッパ各国はイスラム商人を介さず、直接アジアとつながる貿易ルートを喉から手が出るほど欲していました。ポルトガルはその先陣を切って喜望峰周りのインド航路を見つけたわけです。

 ポルトガルの国王マヌエル1世は、1497~1506年の間に合計8回、インド遠征隊を送るなど、アジアへの本格的な進出の機会をうかがっていました。

 そこに立ちはだかったのはもちろんイスラム商人です。ポルトガルが進出してくるということは、彼らの大事な貿易ルートが侵害されることになります。激しい対立が起きるのは当然でした。