人間が生まれてから死ぬまで一貫しているのは、自分自身の心の安心と心の慰めを求め続けていることである。
仏教は輪廻転生を説いてきた。
ところが、合理主義が優先される現代、この思想はかつてほど受け入れられてはいないようだ。最近では、僧侶もこれをあまり説かなくなった。
輪廻転生の思想をもたない人は、ただこの世をいかに恣意的に、そして快適に生きるかに腐心する傾向がある。
「自分だけ、自分たちだけ良ければ、それでいい」といった不条理極まる風潮は、輪廻転生思想の喪失によるものと私はとらえている。
いま、私たちが生きている「この世」を動かす大きな要因は権力と富といった物質欲と慈悲や相互扶助といった精神欲ではないだろうか。
これらを手にするには、それ相当のふさわしい手段を講じる必要がある。
一方で崇高な精神を追究しつつ、もう一方では富と権力を求めたとしても、この2つを同時に満足させることは不可能といえる。
なぜなら崇高な精神とは、いわば他のために自分自身を捧げる生き方で、他のために自己を捧げながら、富と権力をわがものとすることと相反する。
この世の仕組みを見澄ませば、富や権力の入手においては、精神の崇高性はむしろ邪魔なもののようだ。
他のために自身を捧げるなどということなど忘れて、ただ、ひたすら富や権力の追究に狂奔しながら、それを入手したものが世の中を支配する。それが、私たちの生きるこの物質世界での常といえよう。
しかし、肉体は有限であるが、精神は無限である。
人間とは無限の精神を有限の肉体で表現するものだが、有限なる肉体はやがて消滅する。
消滅するということは肉体とともに、それに付随する富や権力、ほかすべてのものを脱ぎ去って精神の世界に旅立つことを意味する。
そこで待ち受けるのは、この世とは逆の仕組みの精神の高低によって支配し支配される世界と仏教は黙示する。