(町田 明広:歴史学者)
◉渋沢栄一と時代を生きた人々(5)「井伊直弼①」
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64827)
井伊大老の始動と条約問題
安政5年(1858)4月23日、井伊直弼は大老に就任する。それまでの主席老中である堀田正睦体制からの大転換である。堀田は通商条約の勅許を求めて上京したが、朝廷・孝明天皇の思わぬ拒絶に狼狽した。
そもそも、朝廷は幕府に大政委任しているはずであり、またその台所は幕府からの援助で成り立っていた。朝廷と一蓮托生とも言える幕府の申出を、いまだかつて拒絶したことがない朝廷の想定外の対応は、幕府にとって大変なショックであったことは疑いない。ただし、孝明天皇は条約勅許に条件を付した。大名の総意であれば、勅許もあり得ると言うことである。
直弼は大老に就任すると、一橋慶喜ではなく家茂を将軍継嗣と決め、かつ通商条約については、堀田らの幕府専断による締結やむなしの意見を退け、あくまでも孝明天皇からの条件である大名の総意を踏まえた勅許獲得に固執した。直弼は単純な開国派ではなく、むしろ慎重派であり、そして、対外戦争よりも朝廷との軋轢が基となった内乱の発生を一層恐れていたのだ。
ハリスは3月5日に江戸に来ており、堀田の帰りを待ちわびていた。井伊大老の誕生の翌日、4月24日にようやくハリスは堀田との会談に漕ぎつけた。堀田は不勅許の事実を隠蔽し、大名の総意を得るためとして、さらに6ヶ月の猶予を希望したため、ハリスも渋々に90日間の猶予を認めて下田に戻った。
ところが、6月13日、米国軍艦ミシシッピ号が下田に入港し、アロー戦争におけるイギリス・フランス連合軍の勝利と、天津条約の締結および両国使節の来航を告げたことから事態は急変する。ハリスは堀田に書簡を認め、両国連合艦隊が大挙して江戸湾に来航して、通商条約の調印を迫ることは必至であると伝えた。幕府は狼狽し、窮地に追い込まれたのだ。