井伊直弼の三男で、越後国与板藩第10代藩主の井伊直安が描いた『井伊直弼画像』(Wikipediaより)

(町田 明広:歴史学者)

イメージが先行する井伊直弼

 井伊直弼は誰もが知っている、明治維新史における重要人物の一人であることは論を待たない。直弼と言えば、大老として通商条約を締結し、14代将軍を徳川家茂にすることで将軍継嗣問題に片を付けた。そして、反対派を安政の大獄で弾圧したものの、桜田門外の変で暗殺された激動の人生を送った人物として知られる。その経緯は間違いないものの、どのような思いや判断からそうした事態を招いたのか、そう問われると途端に雲行きが怪しくなるのではないか。

 直弼は、非常に評価が分かれる人物でもある。一身に責任を背負いながら、通商条約を結び日本を開国に導き、近代日本の礎を作り、日本を植民地化から救ったと英雄視される。一方で、安政の大獄での苛烈極まりない処断から、血も涙もない専制的な悪人のイメージも付きまとう。読者は、どちらの直弼を実際の人物として想像するだろうか。

 これほどの重要人物であり、しかも十分に周知されているにもかかわらず、イメージ先行で語られてしまう井伊直弼の知られざる実像について、その人生を紐解きながら、3回にわたって連載させていただく。

井伊直弼の生い立ちと藩主就任

 井伊直弼は文化12年(1815)12月29日、彦根藩35万石の第11代藩主である直中の14男として彦根城内に生まれた。母は側室お富の方で、江戸麹町隼町伊勢屋十兵衛の女(むすめ)と言われる。当時としては、父は50歳、母は31歳とかなり年齢がいってからの子であり、直中は既に家督を直亮(3男、第12代藩主)に譲っていた。そのような事情から、両親は直弼を溺愛したようで、かなり過保護に育てられながら成長した。

 天保2年(1831)、直弼は17歳となり、井伊家の家風に従って藩から300俵の宛行扶持をもらい、彦根城中の槻御殿を出て、第三郭の尾末町の北の御屋敷に移った。この北の御屋敷を埋木舎と名付け、弘化3年に直亮の養子となるまでの15年間、ここで部屋住みの生活を送った。この埋木舎時代に「なすべき業」として、直弼は禅、居合、兵学、茶道などの教養を積んだ。特に茶道は一級品であり、『茶湯一会集』は代表作として知られる。

彦根城下町にある埋木舎跡(滋賀県)。井伊直弼はここで青春時代を過ごした。

 さらに、運命的な出会いが待っていた。国学者長野義言、のち主膳と知り合い、師事して国学、歌道、古学などを学び、また彼を藩主就任後に重用した。直弼はこの長野の協力を得ることによって、将軍継嗣問題を有利に運び、また安政の大獄を推し進めることになる。

 嘉永3年(1850)、直亮の死去により直弼は彦根藩第13代藩主に就任し、掃部頭と称した。そもそも、直弼は14男であり、藩主の座に就くことなどあり得ないはずだが、井伊家の男子が次々に早逝するなどの条件が重なった。本来、就くはずがない立場、地位に就いた人は、より一層そうありたいと思い、張り切ってやり過ぎる傾向が見られるが、直弼はその典型かも知れない。それは、大老就任時にも発揮される。