(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)
※本稿は『77歳、喜寿のリアル』(勢古浩爾著、草思社)より一部抜粋・加筆したものです。
わたしが生まれたのは昭和22年(1947年)である。幼稚園の記憶はごく一部だけあるのだが、はっきりした記憶があるのは、小学校1年からである。
したがって、わたしが知っている昭和は、昭和28年(1953年)から昭和64年(1989年)までの36年間ということになる。
6歳から42歳までである。
昭和元年(1926)から戦前・戦中の昭和は知らないから、とても昭和の大半を生きたとはいえないが、半分は生きたといっていい。
その後、43歳から77歳のこんにちまで、平成・令和の34年間を生きていることになる。けっして短い期間とはいえず、わたしが生きた昭和の時間に匹敵する。
平成以後、時代とずれまくっている
だが平成以後の時代のイメージが結びにくいのである。
考えてみると、わたしがその間、多大な恩恵を被ったのはインターネット――それも最少のEメール、ユーチューブ、検索機能――だけである(あとはDVDくらいか)。
けれどそれ以外は、わたしは時代とずれまくっている。
ずれまくっているのは、価値観だといっていい。
わたしの価値観の源泉は、昭和の時代が元になっている。
昭和の時代の素材が元ではあるが(家族や生育環境も入っているだろう)、そこから自分の価値観を作り上げたのは、あくまでもわたし自身である。
それがどんなものか、自分でも明言できないが、それが「好き嫌い」でできていることだけは確かだ。
好きなものは、強いて一言でいえば、たぶん叙情、惻隠、哀憫である。三言になっているが。