世の中は「偽善の時代」と「露悪の時代」が交互に繰り返す

「時代は巡る」と言いますが、こうした「正直の時代」も一定の期間ごとにやってくるのだと思います。

 私が好きな夏目漱石の『三四郎』の中に、こんな一説があります。三四郎が広田先生に会いに行ったときに、広田先生が言った言葉です。

「近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他(ひと)を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある」

 露悪家というのは、この広田先生が作った言葉、つまりは作者の夏目漱石が作った言葉です。簡単に言えば、自分の気持ちに素直な「正直者」に近い意味だと思います。開き直りと言っても良いかもしれません。

「君もその露悪家の一人(いちにん)――だかどうだか、まあたぶんそうだろう。与次郎のごときにいたるとその最たるものだ。(中略)昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋ふたをとれば肥桶(こえたご)で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地(きじ)だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫(らんまん)としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。そうしてゆくうちに進歩する」

 要するに、作者の夏目漱石は、この作品を通じて、<世の中は「偽善の時代」と「露悪(=正直)の時代」が交互に繰り返すのだ>と言っているのです。