第3は、信用経済の促進である。後年まで、勘合貿易は室町幕府の巨大な財源となった。貨幣経済を浸透させ、商人たちを富ませ、その上がりを政治資金とした。室町時代は、民の力が強まる時代である。一揆や暴動が多発し、事あるごとに戦乱で家が焼ける時代だが、為替のような信用経済が発達したのも、室町の日本なのである。
第4は、諸侯と宗教勢力の制圧である。
有力守護大名の内、斯波・畠山・山名・赤松・京極・大内が家督相続に介入を受け、一色・土岐などは当主が粛清されている。唯一無傷だったのは細川だけで、これは当主の持之が人畜無害で無能な人物だったからである(嘉吉の変の際、恥も外聞もなく壁をよじ登って逃げ、事件後の事後処理も大いに手間取り大恥をかいた)。
比叡山延暦寺は宗教勢力の団体であり、あからさまな利権要求で歴代政権を悩ませたが、義教は古巣を追い詰め、焼き討ちにした。
南北朝合一後も吉野山中に籠って抵抗を続けていた、南朝の残党への撲滅を宣言。後南朝を壊滅に追いやった。
義教は増長する既得権益層に鉄槌を下した。逆らうものは日本中を追いかけまわし、北は青森、南は琉球までを支配下に置いた。琉球は、功のあった島津家に下賜された。
それまでも琉球は完全に日本文化圏にあったが、形式的に琉球の統治権を明示したのは「嘉吉元年島津忠国宛足利義教感状」である。しばしば琉球は「日中両属」などと言われるが、義教以前にも以後にも、歴代中華王朝が琉球を実効支配したことはない。
第5は、王権神授である。
義教はその治世の最初に、源氏の氏神である石清水八幡宮の御神託で将軍の地位に就いた。自分は神に権力を与えられた身であり、地上のあらゆる者に跪かないとの姿勢で、既得権益層に対峙した。
さて、この5つ。ヨーロッパに先駆けた、絶対主義である。義教は本場のヨーロッパよりも先に、より完全な絶対主義を完成させた。義教に匹敵する絶対主義をヨーロッパに見るとしたら、約200年後のフランスに現れたリシュリュー公爵であろうか。リシュリューは、王と国家の為に抵抗勢力を、徹底的に破砕し続けた。
ブルボン家と同じように義教は、朝廷の権威向上に努めた。
将軍家に対し、まるで独立国であるかのように振る舞ってきた、鎌倉公方足利氏を義教は討伐した。永享の乱である。この時に義教は、後花園天皇から治罰の綸旨を賜った。効果は絶大で、錦の御旗の前に鎌倉公方の軍は雲散霧消した。