◎日本の未来を見据えていた12人(第6回)「伊藤博文」
(倉山 満:憲政史研究者)
伊藤博文、大日本帝国の国父である。
初代内閣総理大臣、初代宮内大臣、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代立憲政友会総裁、初代韓国統監。その立身出世の生涯は、近代日本確立の道程そのものである。
伊藤は天保12(1841)年、長州に、農民の子として生まれた。天保の改革が始まる年である。ペリー来航で激動が近づくころ、足軽の子の養子となる。
安政4(1857)年、松下村塾に吉田松陰の門を叩いた。伊藤は半農の身分が低い武士なので、講義を外で聞いていた。生活に追われ、十分な学問もできず、誰からも馬鹿にされていた。だが、集団授業でありながら個人と向き合う教育を旨とした松陰は、伊藤には「周旋の才能がある」と見抜いた。周旋とは政治交渉のことである。伊藤は、およそ大人物とは程遠いと思われていたのに、慧眼だった。
師の松陰は、安政の大獄で斬首された。この時、高杉晋作は松陰の首を奪い返しに行くが、伊藤もついていった。以後、高杉は英国公使館焼き討ちなど数々の狂挙を行うが、伊藤は常に従った。この頃の長州藩は、現状維持の俗論派と、木戸や高杉ら改革を求める正義派の抗争が激化していた。伊藤は正義派の末席に列し、長州だけでなく日本の改革を目指す政治的激動に身を投じる。