信長は義教に憧れていた?
義教は、将軍就任から13年、天下統一を果たした。平清盛や源頼朝、足利尊氏を超え、義教は日本の最大版図を実現した。また義教はそれを、豊臣秀吉や徳川家康よりも不利な状況から成し遂げた。
あとは、後継者が育つのを待つだけだった。義教は還俗してから多くの男子を残していた。それが自らの使命であると自覚して。だが、34歳まで僧籍だった義教の長男の義勝は、嘉吉元(1441)年には7歳だった。
この年、義教は嘉吉の変で暗殺されてしまう。粛清を恐れた家臣の赤松満祐の、自暴自棄の行動だった。義教の優秀な側近は刀を取って戦い、討ち死にしてしまう。決して人望が無い将軍ではなかった。赤松一族は討伐を受け、流浪の身となる。何の為に将軍暗殺などと大それたことをしたのか、誰かを犠牲にしてでも一族を守る武士としては異常な行動だった。頭が良すぎた義教には、非合理な行動をする人間の行動は理解できなかったかもしれない。
義教の死で幕府は動揺するが、それでもその死後約120年も長らえるだけの遺産を残していた。
義教の先代の義持時代は「みんなが納得する世の中」だった。では「みんな」とは誰か。
既得権益にありつける人々である。義持は既得権益層の利益代表として祭り上げられていただけである。問題が無いから争いごとが無いのではなく、大談合により争いごとを無理やり封じ込めたから問題が無いように見えただけなのである。
義教が将軍に就いたのが34歳。人生50年時代の7割である。平穏な人生を送ることも可能だったのに、あえて捨てて戦いの道に飛び込み、満年齢47歳で非業の死を遂げた。
この数字をなぞっている人物がいる。織田信長だ。ちなみに、名字が「あ」、名前が「み」で始まる人物に暗殺されたところまで同じだ。
しばしば、信長は「天才」「超人」とされる。信長は義教に憧れて努力した節がある。信長は志半ばだったが、義教は日本一統を実現した。
足利義教こそ日本史に残る真の「天才」「超人」である。絶望的な現状を打破し、未来を切り開くには、義教のような人物が現れねばならないのかもしれない。