くだらない時代である。義教はくだらない時代に切り込み、本気で戦ったから嫌われたのだ。では、どれほどくだらない時代だったか。
朝廷に介入して“制圧”
義教は応永元年(1394年)、3代将軍義満の子として生まれた。幼名は春虎。父の義満は日本中で逆らえる者がいない、絶対的な権力者だった。義満は次男以外の子供たちを、寺に入れた。春虎は青蓮院(現在の京都市東山区)に入れられた。僧名は義円(ぎえん)。聡明な義円は、25歳で比叡山延暦寺の頂点である天台座主に登り詰めた。その英才ぶりは開祖・伝教大師最澄以来とされ、年功序列でも家柄でもなく、学識が認められてであった。
その頃は4代将軍義持の治世、義円の兄である。この人物は、世間の評判が良い、くだらない政治家だった。
義持は父義満に嫌われ、足利家を継げないのではないかと噂されていた。義満の死後に守護大名たちは一斉に義持を支持、足利家当主の地位を継いだとの経緯があった。このような経緯のある将軍が、大名たちに逆らえるはずがない。義持は何事も有力守護大名たちとの談合により、事を進めた。この談合には幕府実力者だけでなく、公家・寺社・豪商なども加わる。この人々は、既得権益層を形成する。そして政治は、既得権益層の利害調整と大衆からの搾取に終始する。義持は死の直前、自らの後継者を決めることができなかった。実力者たちが合意しなければ無意味だとの、諦念である。この、最高権力者の無責任。やりたい放題の大名たちに将軍は無力で、政治は無きに等しかった。
実力者たちは、義持の4人の弟に白羽の矢を立てた。全員が僧籍にある。だが、本命は4人の中で最年長の青蓮院義円である。もし、ここで義円が首を縦に振れば、大名たちは挙って将軍に推戴しただろう。自分たちの傀儡として。
現実には、足利家当主と将軍の後継は、石清水八幡宮でのくじ引きに委ねられた。そして、義円が引き当てられた。還俗、元服して義宣(よしのぶ)と名乗った。義宣は「神意」を強調し、やがて独裁的に振舞い、幕府実力者たちと軋轢を繰り返していく。