政治のイロハを知る者ならば、本当に将軍後継をくじ引きなどに委ねるはずがない。常識で考えれば、義円と幕府実力者たちとの談合による演出に決まっている。そして、暗闘があっただろうことは想像に難くない。「神意」を強調する義宣に対し、「くじ引き将軍」と吹聴する世間。室町時代には「京雀」による世論形成がしばしばなされており、敵対勢力への誹謗中傷を流して政治的立場を貶める工作も行われていた。それが京都の政治空間だった。「神意」を強調し傀儡になることを拒否する義宣に対し、既得権益層は「くじ引き将軍」と貶める。緒戦の激しい鍔迫り合いだった。

 義宣は、勝てるところから戦いを挑んだ。時の後小松上皇は、義宣を軽量将軍と見て、権威回復闘争を挑む。だが、義宣は乱れに乱れた朝廷の綱紀粛正を名分に、朝廷に介入する。男女間の乱脈、儀式での遅刻・・・、料理人に至るまで弛緩していた。ここに義宣は「帝に仕える身で何事か!」と喝を入れ、厳罰で臨んだ。いかなる名門貴族も遠慮しない。またたくまに上皇も公家も沈黙した。そして義宣は、自らの名を「世を忍ぶに通じる」と捨てた。自ら「足利義教」と名乗る。本音は明らかに朝廷よりもらった名を捨てたのだ。ここに後小松上皇は沈黙した。

 ただし、義教は尊皇家である。上皇の意向を汲み、後花園天皇を擁立した。のみならず、新帝の教育にも心を砕いた。

改革を貫徹し、5つの成果

 さて、義教はあらゆる改革を行い、退く時は退いたが、最後は必ず意思を通した。その成果は、主に5つである。

 第1は、親衛隊の整備である。文字通りの将軍御馬廻衆、奉公衆を整備した。先代義持の時に弛緩していた奉公衆を復活強化した。

 義教は、有力大名家の次男や三男を取り立てた。彼らは家を継がず、働き場がない。その彼らの中で実力があるものを自らの股肱とし、政権基盤とした。一般に、同一民族の有力貴族の子弟で編成された常備軍は、傭兵や外国人からなる奴隷の如き軍より強い。この時代、常備軍を備えているのは、オスマントルコ帝国くらいだろうか。オスマン帝国は、イエニチェリやシパーヒーのような精強な軍で知られる。前者は征服した外国人からなる歩兵。後者は有力貴族の子弟からなる騎馬兵である。混成のオスマントルコに対し、義教の奉公衆は同じ日本人による軍隊である。奉公衆は決戦兵力として重用されたし、平時にも将軍の御馬廻りに存在するだけで大名たちを威嚇した。京都において将軍御馬廻衆は、大名の兵力の数倍の数であった。

 第2は、官僚機構の整備である。複雑怪奇な利権構造の当時の体制に対処するため、義教は自前の官僚機構を整備した。奉行衆である。当時は、裁判と行政と陳情処理の区別が希薄である。裁判と称する行政は、実力者たちの利権調整の場と化す。

 最初義教は、古代さながらの盟神探湯(くかたち:呪術的な裁判)を行った。社会が複雑化し、裁判がゲームと化し、法と称するルールを操った者が勝つ状態となっていたからだ。賄賂も横行していた。そうした風潮を義教は、己の絶対的な権力で抑え込もうとしたのだ。だが、これでは法は成立しないし、行政ではない。そこで統治をおこなえる官僚を養成したのだった。