吉田松陰が教鞭をとった松下村塾

◎日本の未来を見据えていた12人(第7回)「吉田松陰」

(倉山 満:憲政史研究者)

 天保元(1830)年、吉田松陰が長州に生まれた。初姓は杉、本名は寅次郎。4歳で吉田家の養子となる。松陰は、号である。

 松陰が生まれた頃、世界は白人が有色人種を圧倒し、地球上のほとんどを植民地としていった。その中でも、最強は大英帝国。七つの海を支配するチャンピオンである。そのイギリスの海洋覇権に挑戦していたのが、大陸の雄であるロシアだった。英露両国は対立しながら、オスマントルコ帝国、ペルシャ帝国、インドのムガール帝国、そして大清帝国と、世界中を食い荒らしていった時代である。

 幼き松陰は、山田宇右衛門や山田亦介(またすけ)に山鹿流兵学を学んだ。この時期の松陰は、神功皇后・北条時宗・豊臣秀吉を軍事的模範としてあげている。神功皇后と秀吉は朝鮮出兵の英雄、北条時宗は元寇を防いだ戦時宰相だ。朝鮮半島は日本の生命線であり、そこが大陸国家の手に陥落すれば日本列島は直ちに危機に陥るとの認識が、松陰の原点である。また宇右衛門は、松陰の視野が狭くならないよう、世界の大勢に通じた人物として亦介を紹介した。

 山田宇右衛門から「坤輿図識」、山田亦介から『世界地理書輿地志略』を与えられ世界地理を研究する。その結果、白人はインドそして清を侵略し、異国船が琉球や長崎にも出没している事実を知り、松陰は日本を取り巻く具体的な国際情勢を知って、国防意識に目覚める。

 ここで松陰は「白人」「異国」などという短絡的な理解はしていない。「異人」も一枚岩ではなく、彼らは競合的に日本に進出しているので、その上で敵味方を識別しなければならないと考えていた。

 松陰は、9歳で長州の藩校である明倫館の兵学師範になっている。それどころか、11歳で藩主の前で講義している。山鹿素行の『武教全書』を藩御進講した。畏るべき秀才だった。