今日ただいまも私は、東大の中に1平米も研究室の部局固有面積がありません。全学共通面積に割り当てられた部屋は、先月から「発熱外来」が棟の1階に作られ、共通の入り口に「発熱している方はここでお待ちください」との立て看板。
可哀そうにうちの学生は部屋に上がるには、そこを必ず通らねばならない仕儀となってしまいました。
学生にそんな危ないことはさせられませんから、別の部屋を取って、理論解析の研究打ち合わせを行っています。
そんな具合に、学内で私を敵視する新左翼などが出、これがまた様々な悪さをしましたので、工学部長だった小宮山さんが保護してくださり、隣接キャンパスにプロジェクトで避難するスペースも(2007年までは)でき、東大は狭いから広い所で仕事するといい、と「放流」してくれたのが、学術会議だったのです。
ここで30代の私は「科学技術基本計画」に加筆し、「世界物理年」日本委員会の幹事となってノーベル賞審査員の碩学たちと仕事し、高校・大学生向けにノーベル賞受賞者が直接教える教室など、様々なプランを実現してきました。
2008年以降、私のノーベル賞解説記事は定番で来週もまた書くつもりですが、それは39~40歳にかけてここで仕事し、世界の学術トップとご縁ができたからにほかなりません。
一言でいうと、私の大学公務は一新しました。
だったら、学術会議は素晴らしいところではないかと言われそうですが、そうではないのです。
学術会議の「新入会員」の平均年齢は、当時で62歳を超えていました。60歳定年の時代です。そして、この会議自体も70歳定年。
つまり、大学を定年退職した高齢者が、名誉職でやって来るのが「学術会議」なんですね。「老人会」なんですね。