「人間」であるか、「裁判官」であるか

――冤罪が生まれる構造についても切り込んでいます。

岩瀬 冤罪によって何十年も自由を奪われ、汚名を着せられた人が再審裁判で無罪を勝ち取るには、想像を絶する苦労が必要なんです。メディアの報道や警察に強要された自白などから、偏見と先入観をもって「完全にクロ」と決めつけ、審理を進めていく裁判官たちがいる。そして彼らがいったん「クロ」と決めつけたら、被告人が無罪を主張し、真実を語ることが、罪を逃れようとしての弁明と受け取られ、「反省していない」とますます心証を悪くしていく悪循環が始まるのです。

 裁判は当たりはずれがあって、自白の矛盾を発見して指摘する裁判官もいますが、検察の主張を頭から信じ込むような裁判官に当たると、被告とされ法廷に立たされた人の必死の叫びに耳を傾けようとしない。これはひどいと思いました。

 1995年の「東住吉事件」は、保険金目的で、自宅駐車場の車のガソリンタンクからポンプでガソリンを吸いだし、それに火を着けて自宅で入浴中の娘を殺害したとして母親が逮捕された事件です。この事件では2度にわたる弁護側の燃焼再現実験によって、自動車の燃料タンクの不具合によってガソリンが漏れそこに引火する事実を証明したため、ようやく再審裁判が開始されましたが、そこまで17年もかかっているんです。弁護側の凄まじい尽力がなければ、裁判官の先入観から導き出された冤罪をひっくり返せないのです。

――裁判官という人種は、その職務を通して機械的にものごとを処理するマシーンのような人間になってしまうのでしょうか。

岩瀬 これまで私はさまざまな立場の人を取材してきましたが、そういう人たちと比べて「裁判官ってスレてないな」と感じました。いい意味でも悪い意味でも、すごく素直な人たちで、法律に素人の私と議論になっても「それもそうだな」と受け止める人が多かったんです。

 それはスーパーエリートの上澄みを純粋培養したからこその性質かもしれないし、本来の真理を探求する職務の性質かもしれません。

 でもその純粋さは人を裁くうえで、決してプラスにだけ作用するわけではないんです。

 ある元裁判官と冤罪の話をした時に、彼は現役時代に自白の虚偽や強要にまつわる文献など読んでいなかったと言っていました。あまりに忙しすぎて、そういう基礎的文献を読む時間がなかったと言うことです。読んでいれば、もっといい判断が下せたと述懐していた横顔は忘れられません。