なかなか取得できないビザ、募る苛立ち

 世界ではアフガニスタン紛争が佳境に入り、何の問題も解決していないのにパレスチナのことは忘れ去られた。

 さらに2003年にイラク戦争が秒読み段階となり、アフガンを取材できなかった私は、何としてもイラクへ行くと決めていた。

 開戦直前の1月に堀越さんが「宗教ビザでイラクに行けるよ」と誘ってくれたので今は亡きサダム・フセインの招待で堀越さん、私を含めた計4人でバグッダッドのアルラシッドホテルに2週間ほど滞在した。情報省の役人二人が張り付き、真新しい車2台を我々の案内用に毎日差し向け、フセイン政権が見せたいものを見る日々だった。しかしスラム街に絶対行きたいとリクエストしていて、渋々だったが当時の「サダム・シティ」(現サドルシティ)を最後に見ることができたのだった。

 日本に帰国してから再びイラクに「いつ行くか」がテーマだった。堀越さんから「車とかシェアして長井さんと一緒に行ったらいいよ」とアドバイスを受け、長井さんに連絡を取った。しかし問題はビザで、日本で申請しても埒が明かなかった。ビザにはコネが必要で、しかも高額で買うものになっていた。しがないフリーランスが出せる額ではない。フセイン政権が末期に近いとイラクの役人たちもわかっていたのだろう、なるべく私腹を肥やして崩壊に備えていたに違いない。

 いつ行きますか、どうしますか・・・とやっているうちに開戦してしまった。そんなこんなで急ぎイラクの隣国ヨルダンのアンマンへ。長井さんとは現地集合し、アンマンのイラク大使館を詣でる日々が始まった。堀越さんのツテをあてにして通ったが、ジャーナリストビザはなかなか出してもらえず、時間だけが過ぎていった。午前中に大使館に行ったらあとは一日やることがない。長井さんは私の能天気さにもイラついていたと思うが、ビザが取れないことでどんどん機嫌が悪くなり、しかも風邪をひいたらしく体調も悪そうだった。

 アンマンに着いて一週間以上は経っていただろうか。ある日、今日ビザが出そうだということになり、大使館へ行くと本当にビザがもらえた。後に長井さんの遺影として使ってもらった写真はこの時記念に撮ったものだ。場所はアンマンのダウンタウン、ローマンシアター(遺跡)。ビザが出てほっとした表情が伺える。

アンマンのローマンシアターで(写真:嘉納愛夏)
アンマンのバーバーでイラク入りの前にサッパリする長井さん(写真:嘉納愛夏)