予期せぬ訃報
私たちがバグダッドに再び入ったのは陥落直前だった。
長井さんには病気の少年にオムツを届けるというミッションがあったり、ビデオジャーナリストとフォトグラファーは動きが違うため、バグダッドに入ってからは完全に別行動となった。
日本の大手メディアは陥落までバグダッド入りを控えていて、陥落後に一気に入ってきたため、フリーランスの役目はある程度終わり(当時はそんな空気だった)、私は先に帰国。長井さんもしばらくして帰国したのだが、私の忘れ物を持って帰ってくれたので長井さんが所属する赤坂のAPF通信社まで訪ねた。
その時に長井さんは何を思ったのか、「愛ちゃんには負けたよ。完全に負けた」とつぶやくように、でもはっきりと私に言った。その時は何のことかわからなかったが、自分の数々の失態に私がよく辛抱したということなのだろう。そして、私が帰国した後になくなったはずの証明写真がどこかから出てきたに違いない。それを思うとすごく可笑しいのだ。
それから後、何度会ったのか記憶が定かではない。現場で近いところにいて毎日会っていても、帰国したらまったく会わないというのはこの世界ではよくあることだ。
私は2003年の12月にまたイラクへ。今度はイラク特措法で派遣される自衛隊の取材が主だった。それからは自衛隊が派遣される場所を中心に海外の大規模災害の現場などを取材するようになった。
2006年には久しぶりに紛争地のレバノンで取材し、結構な赤字を抱えたので「しばらく紛争地の取材は無理だな~」と国内で大人しくしていたら翌年の9月27日、不意に訃報が飛び込んできた。耳を疑った。リアル感が全くなく、うちにやってきたレポーターや記者に何を話せばいいのかわからなかった。私生活のことはまったく知らないし、普段の友達付き合いはしていなかったから。
長井さんの取材対象は常に弱い立場にいる人々だった。とくに犠牲になる子どもたちにクローズアップしていた。それは戦場だけでなく、病気の子どもも含まれる。タイのバーンロムサイ(HIVに母子感染した孤児たちの生活施設。チェンマイにある)を取材した作品には温かな視線が感じられる。