写真:AP/アフロ

 昨年12月、中国・武漢で原因不明の肺炎が発生したという報道がされたときは、ほとんど関心がなかった。その後、新型コロナウイルスと認定され、あれよあれよという間に中国では感染者数が増え、発生元の1千万人都市・武漢は閉鎖された。日本でも1月28日、奈良の60代のバス運転手の感染が見つかり、国内初の感染者が出た。

 テレビは早速世界の感染国地図を用意した。数百人の感染者がでた中国が赤く塗られるのはわかるが、まだ1人しか感染者がいなかったアメリカやロシアの全土を真っ赤に塗りつぶすことはどうなのよ、と思った。その後、この地図は姿を消した(「ミヤネ屋」はその後もやっていたが、色はピンク、と薄い)。

 テレビで東京のスーパーや薬局からマスクやアルコール消毒液が払底するという報道がなされた。これは最初、都市の一部で生じた局地的現象だったのだろうけど、テレビに数店舗の売り切れ状態が映しだされると、あたかもそれが全国的現象であるかのように錯覚させられたのである。わたしは宮崎県の知人から、関東は大変らしいですねといわれた。しかし、いまではマスクや消毒液の品切れは地方の隅々にまで拡大したのか(九州で初の感染者は2月20日福岡で)。報道ではそのあたりのことがいつもわからない。世界のアジア人差別もごく一部ではないのか。

手洗い、マスク、そんなに大事か

 わたしは新型ウイルスに弱いといわれている前期高齢者なのに、マスクもアルコール消毒液も手に入れてない。入れようともしなかった。わたしは生まれてから72年間、基本的に手を洗う習慣がないのである。不潔だと思わないし、そのことで病気になったこともない。意地でも洗わないというのではないが、逆にみんなはなぜ手を洗うのか不思議である。ただの気休めにすぎないのではないか。わたしが手洗いをする基準は、わたしの住んでいる町で感染者が出てからである。

 マスクは本来は感染予防用にあるのではない。自分の咳やくしゃみで、他人にウイルスをばらまかないようにするためである。が、マスク人間たちの9割は予防のためと思っているようである。マスクをしてすっかり安心しきっている。わたしはマスク着用者に偏見がある。病いなら仕方がないが、なかには「ゼロリスク」病の人間や、格好だけの伊達マスクもいそうである。最近は犯罪者がマスクで顔を隠している。

 そのマスクは8割が中国からの輸入品だとはじめて知った。わたしが知らないだけで、いまやほとんどの日用品が中国製かもしれない。ビニール傘も割り箸もそうだという。いずれ品切れになるかもしれない。

 マスクよりも、重要なのは手洗いだといわれる。手洗いが大切なのは、触った目や鼻や口からウイルスが伝染するからである。それがバカなテレビ局が人間が一日に顔を触る回数は300回だと検証したり、手に蛍光塗料みたいなものを塗って、生活のなかでどこまで広がるのかをやっていた。ほぼ無意味。

「専門家」がそんなにありがたいか

 ところがこの手洗いにしても、にぎり洗い、ひねり洗いを実演して見せる大学教授が現れ、特に小指と薬指の股を洗えとのたまう。洗う時間も30秒という「専門家」がいれば、2分間という「専門家」もいる。ふつうの石鹸で十分という「専門家」がいれば、いやアルコールでないとダメという「専門家」がいる。