「六・一休業」

 さきのベリガンはこのことに触れて、

 尾津は彼の地域の空襲で焼けたあとへ、小商人向きの、小さいながら頑丈な店を建てならべた。この土地の所有者達が尾津が地代をおさめぬばかりか、事実土地の使用について地主の許しらえていないことを抗議した時に、尾津は取調べの警官に、彼の店は世の人々のために建てたもので、これらの店の商人たちは非常に「義俠心」に富んでいるから、どの商品にも100パーセント以上の利潤を要求したことはないと語った。

(「東京のカポネ=尾津喜之助」)

 と皮肉に記しているが、1945年秋には、生活の守り神として都民の拍手喝采を受けた尾津のテキ屋論理も、かれ自身が暴力行為等取締に関する法律違反並びに強要の罪で強制収容され、公判がはじまった段階では、もはや昔日の輝きをなくしていた。

 たとえ、それが国民生活の窮乏をヤミ市に転嫁しようとするスケープゴート探しの一面を持っていたにせよ時代は確実に動きはじめていた。それは、もはや社会の共感をうるものではなく、かえって一種のカリカチュアとして受けとられはじめていたのである。

 ヤミ市と政府、占領軍との関係が1946年夏以来変化し、警察の直接取締りが強化されると、ヤミ市のシステムは急速に矛盾を露呈して機能しなくなり、各「組」に対する圧迫が強まる。

 1947年夏には、ヤミ市を支配する「組」の幹部があいついで逮捕されたり手配されるようになる。この状況のなかで、新宿の安田組、浅草の芝山組、渋谷の関東和田組、新橋の関東松田組などが解散する。

 そして、7月末には東京露店商同業組合が解散を決議するに至る。他方、この夏からは料飲店が全面的に禁止され、ヤミ市と「組」との関係は、隠微なものへと変わっていくのである。

 1949年9月、都知事、警視総監、消防総監は連名で、路上の露店の撤去通告をおこなった。三多摩と島嶼をのぞく都内の路上での露店商の商売は、1950年から1951年にかけて、完全にその姿を消した。

 また、都の幹線街路網計画による駅前広場、繁華街の土地区画整理によるマーケットの移転がはじまるのは、1950年である。

 テキ屋論理は、この時期に一部のマーケットをのぞいて駆逐され、朝鮮戦争がはじまって、日本の戦後につぎの段階が訪れる。

 ヤミ市の変化に追い討ちをかけたのは、1947年6月に東京都内で実施された「六・一休業」つまり飲食店一斉休業である。飲食店のうち、外食券食堂、旅館、喫茶店などを除くすべての営業は、この日から表向きまったく禁止されてしまう。

 これではマーケットの呑み屋も、屋台の商人も、否応なくアウトローに転化していかざるを得ない。表面はコーヒー屋、実はカストリの呑み屋といった営業が独特の街をつくりだすのは、これ以後のことである。東京で飲食店が再開されたのは、1949年6月のことであった。