新宿再興の功労者

 1947年、東京都は都条例を発し、疎開地の地上権回復を明らかにした。新宿大通りを中心にして、地主たちが本格的にヤミ市の土地返還を要求しはじめるのは、この頃である。これについて、尾津喜之助はつぎのようにいったという。

 その土地問題というのは、前年からプスプスといぶり出していたのである。つまり、地主たちは、戦争中は、多額の立退料を都からせしめて疎開し、私たちが血と汗の必死の努力で再興した新宿へ、又、ノコノコ戻ろうとして、もとの地上権を楯に、土地を返せというのである。彼等は、都条令・・・を、モッケの幸いにして、私に対して不法占拠という汚名をきせ、早々に立ちのけの一本槍、・・・

(『話』)

 その土地には、新宿再興の功労者が多数生活していて、いますぐといって、行き場がないのだ。この、われわれの苦衷を、法律一辺倒の彼等は、歯牙にもかけなかった。(同)

 かれが新宿再興の功労者といっているのは、ヤミ市の露店商やマーケットの商人たちであり、その人びとを顧客としてヤミ市を経営している自分たち「組」の人々である。テキ屋の論理からすれば、土地は天下のものである。

 とくに、問題になった土地は、地主が地上権を放棄して転出した荒れ地で、自分たちが地権者の東京都や警察に委託されて整理し、再興したニワ場である。これを地割りして露店を招き、さらにはマーケットをつくってたくさんの人たちに職場を提供し、新宿を盛り場として再興してきたのだ、というのがその理屈なのである。

 ところが、この話を新宿通りの地主の側からみると、つぎのようになる。

・・・(戦時中)商店主や従業員の出征があいつぐようになり、小人数での営業が多い新宿では、営業活動に次第に支障をきたすようになってきた。・・・生活物資の配給店が指定制になり、・・・企業整備による併合があり、商業報国隊で徴用に狩り出され、強制疎開で立ち退かされ、最後に、米軍のB29爆撃機のじゅうたん爆撃によって、新宿の街景そのものも消失することになる。

(『新宿大通り280年――新宿大通商店街振興組合創立30周年記念誌』1977年、非売品)

 というのだが、一面焼け野原となった新宿では、復員兵軍人や焼け出されの人びとが自然に売り買いをはじめる。

 しかし、この時期は、ほんのわずかである。焼けトタンや廃材で小屋がけをして商売をはじめる人が出てくるようになると、ある日突然、この地域の大区画をヨシズやベニヤで仮設したヤミ屋街がいくつも出現するのである。

 新宿大通りに面したヤミ屋街は、高野果実店の脇から三越あたりまでの一角だが、おかしなことにそれがいつ頃だったのかはっきりしない。戦前、この土地で商売していた人たち(松喜屋、中村屋など)にも、自分の土地に帰ろうとしたとき、すでに建っていたということで、それはまさに、一夜にして建った! という実感としての表現しかなかったのだろう。(同)

 元の地主にしてみれば、戦時中に全く機能を停止した盛り場で、戦時下の政府の強要によって、やむなく立ち退いたもので、本来これは汗と脂で築き上げた自分たちの資産である。戦後当然返還されるのが筋なのである。

 しかしまた、この人たちが、敗戦後しばらくの間、その土地に関心を持っていなかったのも事実である。そうでなければ、無償で瓦礫を整理し、そこに露店を導き入れるテキ屋の努力を黙ってみているわけがない。関心がなかったからこそ、「それがいつ頃だったのかはっきりしない」ともいえる。尾津の論理も、戦後の混乱期の真実の一面を語っているのである。

 これらの文章を読んでみて、まず感じるのは、両者の良識や価値観がまるで違うことである。

「組」の論理は、いうなれば、土地を単なるニワ場としてとらえ、これを商売の道具にして一時的に利用することに価値を見出す旅人のそれであり、特異な危機的環境のなかで通用する刹那的な論理である。

 それに対して、元商店主たち、地主たちの論理は、土地そのものを価値とし、その上に永住して商売する定住者のそれであり、永続性を基礎にする平常時の生活論理である。変転の極めて激しかった1940年代の後半においては、この問題は、どちらが正しいかではなく、社会がなにを論理として認めるか、によって決められる事柄であった。