東京ヤミ市

 第二次世界大戦前までの東京で、盛り場といえば、日本橋、浅草、上野広小路、神田、銀座、新宿、神楽坂、道玄坂といったところが挙げられるが、戦争直後は、このうち主要な鉄道駅と繋がっていない神楽坂には、あまりたいした賑わいがみられない。

 浅草は、戦後すぐの時期こそ露店の飲食店で賑わったが、まもなく上野広小路にお株を奪われてしまい、面影がない。また、日本橋から銀座にかけては露店こそ多いが、1946年半ばからヤミ市の主流にのしあがっていくマーケット形式の木造長屋はみあたらない。

 駅から遠い神田もその点は同じである。

 それに反し、郊外へのターミナル駅に繋がる新宿、渋谷、池袋には巨大なヤミ市ができ、都心に近い有楽町には飲食店が立ち並んだ。

 新宿、それはヤミ市の発祥地である。戦前から新宿露店商の頭株だった飯島一家小倉二代目関東尾津組親分尾津喜之助が、敗戦5日後の新宿東口に開いたのが、新宿ヤミ市であった。

酒場の作法

 ヤミ市の呑み屋は、死と隣り合わせである。1946年には、占領軍が、兵士をメチールで死に至らしめたものは死刑、という通達を出しているから、アメリカ兵士のなかにも、酒に殉じた侍がいたことがわかる。

 資料によると、その数は、全部で死者20名、重症11名だという。メチール混入の確率がかなり高いバクダンを祈りにも似た作法で呑むのは、戦争で死に遅れた者の心理であり、死者への鎮魂を籠めた崇高な行為である・・・と、イキがっても、これは大変なことである。

 メチールは、1946年初めから急増し、2、3年も呑み続けられている。そのピークは1948年4月で、東京で死者7名、失明2名を出している。

 田宮君(註・当時、田宮虎彦は『文明』編集長)が帰ると言って、玄関を出たとき、上村さんから電話だと言う。「こんな時間に、なんだろう」妻は上村さんのところへ行った。帰ってきて、「武麟(註・武田麟太郎)さんが危篤なんですって」「危篤?」

 メチールだなと私は思った。そして深い溜息をついた。

(高見順『完本・高見順日記 昭和21年篇』凡書房新社、1959年)

 武田麟太郎がメチールに殉じたかどうかは、いまだに謎である。

東京のカポネ」尾津喜之助

 1995年1月の阪神・淡路大震災直後、TBS午後3時のニュースは、ここにテキヤ風のグループが現れて、被災者たちに水や食料を配った、と報じている。それが誰だったのかはわからないが、いかにもテキ屋の人びとらしい「義俠」である。

 この人々には、明治、大正以来の不思議な倫理観と生活観がある。そして、第二次世界大戦後のヤミ市経営では、それがポジとネガの両面で極端に現れていた。

 D・ベリガンは、当時ニューヨーク・ポスト特派員として日本のヤミ市を丹念に取材した記者であるが、かれの目にはヤミ市の経営者は「東京のカポネ」として映っている。

 ここでかれが名指しているカポネとは、新宿から出て、東口に尾津組のマーケットをつくり、東京露店商同業組合理事長となり、1947年まで東京露店商の頂上にいた尾津喜之助のことである。

 東京はいうに及ばず、日本中の都会では、露店は皆伝統的に与太者に支配されており、終戦当時にも彼らはボロ儲けをしていた。尾津も勿論その例にもれなかつた。商店は殆ど焼けて、商人はやむなく自分達を保護してくれる与太者の支配下に入って、街頭で露店を開くほか仕方がなかつた。徳川将軍の時代でも、こんな景気の良いことはなかつた。

(「東京のカポネ=尾津喜之助」『世界評論』1948年8月号)

 というのである。テキ屋稼業を与太者と片付けたのは、D・ベリガンの勉強不足だが、それにもまして、尾津喜之助が徳川将軍に比較されているのは、面白い。

 たが当時のヤミ市経営者たちは、そんなふうに悪の巣窟として、自分たちのヤミ市をみていたのであろうか、ここに、当の尾津が書いたとされるつぎのような一文がある。

(終戦の日)私は手近な連中50人ばかりを集めて、「新宿から、すべての人に呼びかけようと思う、ついては、明日から道路整理と掃除をやろうじゃないか」というと、みな、勇躍して賛成してくれた。・・・ところが、一口に焼跡整理とか清掃といっても、並大抵の努力で出来るものではない。

 駅から三越の先まで整えるために、鉄屑の山がどのくらい出来たかしれないのだ。やっと、どうにか清掃をおえると、「明日から露店を再開して、みなさんに、この明るい新宿を提供したい」そういう貼紙をした。

(『話』1952年10月号)

 ここには、他人の土地を不法に占拠したという罪悪感は、少しも感ぜられない。むしろあっけらかんとして明るく社会事業に取り組んでいるという趣ではないか。かれの主観的な意図としては、テキ屋の方法と手順を使って、ひたすら自分たちなりに荒れ果てた新宿駅前を再興させようという義俠心を発揮しているのである。

 東京のヤミ市経営者は、こうした不思議な倫理観に裏付けられて、敗戦後の盛り場をプロデュースしていくのである。