「クルマエビの父」が切り開いた世界のエビ養殖

世界を渡り歩くグローバル食材、エビ(前篇)

2019.10.11(Fri)漆原 次郎

 戦後、1949(昭和24)年になると、藤永は水産庁に入り、調査研究部長として米国、カナダ、ソ連などとの漁業交渉などを担当する。その間もクルマエビへの想いは失われなかった。水産庁勤務時代には、千葉県に研究室を自費で設立し、クルマエビの研究を続けた。

 藤永には、クルマエビを「安く食膳に供しよう」という夢があったという。1959(昭和34)年には水産庁を退庁し、その夢に向け翌1960(昭和35)年には養殖会社を設立し、稚エビの生産を始めた。そして、1963(昭和38)年、山口県秋穂町(現山口市)にて瀬戸内海水産開発という会社を立ち上げ、クルマエビの養殖事業を本格化させる。

 その後も、藤永はクルマエビの養殖技術を極めていった。1964(昭和39)年、「生態系方式」とよばれる、海の生態系を凝縮させたようなクルマエビの種苗生産モデルを築いた。ついにクルマエビ養殖事業が採算に乗ったのは1970年代のことという。クルマエビに対する執念、いや愛を持ちつづけた藤永は、養殖技術を世に遺して1973(昭和48)年、71歳で永眠した。

養殖技術が世界へ、そして日本は大量輸入国に

 藤永元作により築かれたクルマエビの養殖技術は、1970年代から80年代にかけて海外に普及していった。その対象はブラックタイガーやバナメイエビなど、他のクルマエビ科にも広がった。

 1960年代初頭、日本人が食べていたエビのほぼすべてが国内産だった。だが、2017年時点では、輸入エビの量は国産の10倍を超え、日本人の食べているエビのほとんどが外国産となった。その過程では、1961(昭和36)年のエビ輸入自由化や、日本の大手水産会社や商社などによる冷凍エビの積極的な買付け・輸入などの要因もあった。それとともに、日本で確立されたエビ養殖技術が海外に普及したことも、「国産から輸入へ」そして「消費量の増加」という大きな変化をもたらしたのである。

 2000年代に入ると、世界での養殖エビ生産量が、天然エビ水揚量を追い抜き、現在その差は広がっている。途中、エビの感染症「早期死亡症候群(EMS)」が世界各地で蔓延し、危機もあったが、2018年の養殖エビ生産量は過去最高の約450万トンにまでなった。

 日本人とエビの関係は、戦前までは細く長く、ほぼ日本国内のみで続いてきた。だが、戦後、日本発の養殖技術をきっかけのひとつとして、太く、世界と関わるものに変貌したのである。いまや、私たち日本人のエビ食を、海外との関係なしに語ることはできない。

 こうした状況の中、現在もエビ養殖関連技術を開発し、それを海外でも使ってもらうことで日本として貢献しようとする取り組みがある。後篇では、現代のエビ養殖をめぐる研究開発に光を当てたい。

(後篇へつづく)

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