(篠原 信:農業研究者)
自動車教習所で練習していると、「右にカーブするときは右を見るように」と指導される。実際、右にカーブするときに左の景色を見ていると、思いのほかハンドルが切れずに、壁に激突しそうになってしまう。人間は、視線の方向に意識が引きずられてしまうらしい。
言葉にも、視線に似て、意識を引きずる力がある。小泉純一郎氏が首相に就任したあたりから以降というもの、「これからは競争社会。のんびりしていたら社会から取り残されてしまう」と脅され続けてきた。他人はみな競争相手、敵であり、押しのけていかなければならないような気分にさせられてきた。「勝ち組」「負け組」という言葉も登場したりした。
実際には「そんなことはない、人は助け合わなければ生きていけない、競争ばかりで世の中が回るのだろうか」と、納得いかなかった人も多かったのではないかと思う。しかし、言葉は、視線と同様、意識を引きずる力がある。「そんなことはない」と心の中で否定してみても、「いやおうなしにそっちに世の中は進んでいくのかな」と、結局引きずられてしまう。
「言霊」という言葉がある。口にしたことが実現するという考え方で、自分が将来なりたいものがあれば、それは口にした方がいいよ、と勧めるビジネスコンサルタントもあるようだ。確かに、言葉には、視線と同様、意識をそちらに持っていく力がある。だから、自分の夢を言葉にするということには、一定の意味があるのだろう。言葉には、自己実現してしまう力がある。
熱血指導で気力を失ってしまった学生
ところで、言葉には、額面どおりの意味とは別に、「裏のメッセージ」があるように思う。そしてしばしば、「額面どおりの意味」よりは、「裏のメッセージ」の方が人を縛ることが多いように感じる。「裏のメッセージ」によっては、人を奮起させることもあれば、逆に意欲をこの上なく萎えさせることもある。本稿では、そのことを考えてみたい。
夏から、私が研究指導をすることになった大学院生。ところが、疲弊しきっていた。私が指導するまで、研究が楽しくて仕方ない先輩から熱血指導を受けて、連日朝早くから実験し、終了は深更に及び、土日も一緒に実験しよう、という日々。先輩は楽しいので実験が苦にならず、土日だろうが夜中だろうが起きている間、ずっと実験していても平気。しかし、それにつき合わされていたその学生は、もはや研究に嫌気が差し、気力が湧かなくなっているようだった。
これでは研究するどころか、研究室に来なくなってしまうかも。それくらい、疲弊しきっていた。そこで最初の指導は、「ちょうど夏休みだ。7月、8月の間は、遊んで来い。研究室に顔を出すな」。
そしたら、本当に、まったく顔を出さなかった。9月になって顔を出すかどうか、少々不安になるくらい。