「ねじれ」をはらんだ存在として

 じっさいあらゆる意味で、皇居とそこをすまいとされる天皇は、メビウスの輪によく似ている。一筋縄ではいかないのだ。江戸城のあったときは、たくさんの建物が建てられていたその空間も、近代天皇のすまいとなってからは、伊勢神宮を思わせるような森に変わった。

 神社はぽっかりと空いた空間に設けられる。そしてそこには、姿形を像であらわすことのできない、抽象的な「神」が宿るとされる。神道の神は、なにかの物質性をもって表現される「象徴」を、否定する。神社の森には、そういう神がすむことになっている。

 ところが、神だとされることもあった天皇には、肉体がある。天皇は肉体性をそなえた神として、はじめから象徴だった。姿も形ももたない神を祀る神社のような空間に、肉体性をもった象徴としての天皇がすむ。

 こうして都心の森である皇居とそこをすまいとする天皇は、じつに複雑なねじれをもった存在となる。皇居はただの「空虚な中心」などではない。それはこれまであったどの皇居よりも、入り組んだ構造をしている。そしてそのことが、近代天皇制の迷宮ぶりを象徴してもいる。