大阪・堺市にある仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)

 仁徳天皇陵をはじめとする百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群が、大阪で初めて世界遺産に認定されることがほぼ決まった。思想家・人類学者である中沢新一氏によると、大阪・堺は日本史において特異な位置づけがされる街だという。日本で数少ない「ほんまもんの都市」とされるその理由とは?(JBpress)

(※)本稿は『大阪アースダイバー』(中沢新一、講談社)の一部を抜粋・再編集したものです。

大阪という「野生」都市

 大阪の街路は、東西に走る道路が「通り」と呼ばれ、南北に走る道路が「筋」と呼ばれている。自動車道路が優先されている現代の感覚からすると、「筋」のほうが重要な存在なようにも思われがちだが、ひとたび「遊歩者」の感覚でこの町を歩いてみると、どうしても東西方向に走る「通り」のほうが、深い意味をもっているように感じられてしかたないのである。

 実際このことは、大阪の古地図を見るとはっきり感じ取られることであり、そこではあきらかに筋よりも通りのほうが重要な意味をあたえられていた。古代日本では「東西は日の縦(たたし)、南北は日の横(よこし)」という言い方がされていた。

 太陽の運行に合わせた東西の方向が方位観の縦糸をなし、南北の方向はそれに交わる横糸をなすというのが、古代日本の自然感覚をなしている。その感覚が大阪を遊歩する者には、いまでもはっきりと感じ取られるのだ。

 これにたいして、中国からの輸入思想にもとづいて設計された京都では、南北の軸のほうに重きが置かれている。つまり「東西を横とし、南北を縦とする」思想にしたがって京都はつくられている。

 大阪は太陽の運行という自然現象が、そのまま都市のモデルの中心軸にすえられているのだ。都市というものにたいする大阪がとったこの考え方は、東京とも異なっている。東京は皇居(江戸城)を中心とする同心円状の構造を基本とする。中心から周囲に向かって、力が広がっていく構造であり、農村を地盤とする封建都市では、好んでこの構造がとられた。

 大阪には中心がない。大阪城はあっても、それは東京で言えば東京タワーのような「古代岬」の突端につくられた一種の都市の「縁」であって、皇居とは地政学的な意味がまったく違っている。大阪に環状線は走っていても、なんとなく東京の山手環状線のような必然性を感じさせない。同心円の構造は大阪には似つかわしくない。

 そんなわけで、大阪では「東西」の軸が、ほかの都市にみられない大きな意味をもってきた。東西の軸は太陽の動く方向であり、この軸を基にして設計された大阪は、都市思想の土台に一種の「自然思想」が据えられていることになる。大阪は古代人のような自然なおおらかさをもってつくられ、人間の野生が都市の構造に組み込まれている。

古代思想を取り入れた「大阪」にある古墳群

 古代人の思考に、見えない東西軸の力を感知させていたものは、生と死を円環する宇宙的な自然の現象と考える、死の思想である。この考えは、権力や国家というものがつくられるよりも、ずっと古くからあった人類の思想だ。この古い考えでは、どんなに威力のある人間でも、その生には限りがあり、遠からず死の破壊力に呑み込まれていかなければならない。

 しかし、死は終わりではなく、死の中から新しい生が生まれてくる。こうして生と死は円環を描いて、消滅と生成をくりかえしていく。

 ところが、国家とか権力とかいうものは、それとは違う考えを好んできた。王の権力というものは、誰よりも強い生命の威力をあらわしたものであり、死後もその威力は、目でみえる形で持続していかなければならない。そういう考えにもとづいて、巨大な「古墳」は築かれた。

 大阪の西側、海側のほうの端に有名な仁徳天皇陵をはじめとする、堺(さかい)の巨大古墳がある。いったい、この古墳はなんのためにこのような巨大な構造をとったのだろうか。

 堺を中心とする百舌鳥(もず)古墳群は、たいへんに派手な構造をしている。在りし日の古墳は、今日(こんにち)のわれわれが想像するよりもはるかに派手なものであった。現代の私たちが目にする古墳は、深い緑に覆われてしまっているが、もともと古墳の全面は葺石(ふきいし)という磨き上げられた石の板で覆われ、そのまわりには埴輪が立ち並べられていた。巨大古墳は朝日をあびると光をキラキラと反射させ、輝いていた。