なぜ、代々木だったのか?
「帝都」東京の設計図を描いていた人々のなかには、象徴論的にものを考えることの好きな人たちもいて、この人たちの悩みの種は、東京を守護すべき守護霊の居場所が、はっきり定められていない、ということであった。
京都には北東の方角に比叡山があり、そこに最澄は仏教の寺を構えて、国家の鎮護のための象徴的な場所とした。江戸にも北の方角に日光山があった。江戸の設計図を描いた天海僧正の提言で日光に聖地が開かれ、家康の御霊を祀ることで、そこが守護霊の宿る場所となった。こういう場所が、近代天皇の都である東京には、まだなかったのである。
首都のほぼ西北の方角にあたる代々木の御料地が、明治天皇の御霊を祀る国家的な神社の建てられるべき場所として選ばれた背景には、あきらかに、そこを東京と国家を護るべき、守護霊のおさまり場所にしようという、象徴的な思考が働いていた。
「東京は帝国の首府にして世界にたいして帝国を代表せり故に帝国を鎮護せらるべき地点は帝国を代表する帝都を鎮護せらるべき地点たるなり」(「明治神宮経営地論」)
広々として小高く、白虎(西)青龍(東)朱雀(南)玄武(北)をあらわす吉相をそなえた地形をもち、水清く、深々とした針葉樹林につつまれた森といえば、最有力候補として、代々木が浮上してくる。
その森に、帝都と帝国を守護する、強力な霊を祀る神社が建てられなければならない。そうしなければ、世界戦争の時代を生き抜いていくことはできない。そういう象徴的な思考によって、明治神宮はあの場所に選ばれたのだった。
明治神宮は、日本という国家のための「鎮守の森」として、最初から構想されていた。入念な調査と、最新の森林生態学の知識を駆使して、慎重に設計が進められ、莫大な予算と多くの国民の作業奉仕を投入して、大正時代を代表する一大国家プロジェクトは、1920(大正9)年にいちおうの完成をみた。
日光に祀られることによって、家康の御霊が将軍の権力の守護霊となっていたのと同じように、明治天皇の御霊は、代々木につくりだされた巨大な鎮守の森に祀られることによって、帝国の守護霊となった。結局、文明開化などによっても、深層で動いている日本人の思考は、すこしも変わらなかったわけである。
現在の皇居が「森」で覆われた必然
奈良や近江や京都にあったこれまでの皇居は、いずれも中国の王城を模して、平地の開かれた場所に、威風堂々とつくられていた。皇帝のすまいであり政治のおこなわれる場所である王城は、都市の理想をあらわしていた。
自由と秩序ということが都市の理想であり、王城はその都市性のエッセンスをあらわしていた。だからそれは森の中ではなく、文明のおこなわれる平地につくられなければならなかったのである。
中国の皇帝は、天帝から認められて王権をふるうことのできる存在だった。だから、平地に開かれた壮麗な建物をもつ王城こそ、そういう皇帝にはふさわしい場所だったわけである。