都心部にある、現在の「皇居」は例外?
このように、天皇と森とは、古来深いつながりをもってきたのではあるが、それはあくまでも日常とはちがう、「ハレ」の行為としての意味をもっていた。あくまでも、日常の政務や生活の空間としての皇居は、広々と開け放たれ、庶民たちの暮らしと地続きにある都市の一角にすえられていた。皇居はむしろ文明の象徴として、緑の少ない空間になければならなかったのである。ところが、近代天皇はみずからすすんで、森の奥に身を潜めた。
昔の暮らしのやり方では、「ハレ」の日にしか許されなかったことを、年がら年中昼も夜もやる、というのが近代都市というものである。その精神にあわせて、文明開化とともにかたちを変えた近代天皇制は、「ハレ」の時空の表現であった野生の森を、都市の中心部にすえて、そこを皇居と定めたのだろうか。
それとも近代天皇制そのものが、一種のクーデターによって生まれた「鉄砲から生まれた政権」なので、森の奥に皇居をすえることで、後醍醐天皇さながらに、魔術的な戦士としての臨戦意識を持続しようとしたのだろうか。
いずれにしても、近代になって、天皇は日常的に、森の中に身を潜められるようになってしまった。このことに、外国思想はまったく影響をあたえていない。
明治天皇の御霊、どこへ祀る?
こういう近代天皇制を確立した明治天皇が崩御されたとき、その御霊をどこにお祀りするかが、国民の一大問題となった。明治天皇ご自身は、京都の近くに戻りたいと考えていらっしゃったらしく、伏見桃山に自分の御陵をつくってほしいという遺志を残していた。
おさまらないのは、東京市民である。けっきょく京都がいいのかい、東京は田舎で悪かったね、といささかプライドを傷つけられた彼らは、しかしすぐに気を取り直して、お墓がだめだというのなら、せめて御霊をお祀りする場所を、関東周辺に設けるべきだという運動を開始したのだった。
いくつもの候補地が手をあげた。青山、代々木、戸山(とやま)、小石川植物園、白金、和田堀村、御嶽山(みたけさん)、富士山、筑波山、箱根山、国府台(こうのだい)・・・。1913(大正2)年に発足した神社奉祀調査会は、さまざまな条件を考慮にいれて、連日会議を重ね、知恵をしぼったあげく、このうちの豊多摩郡代々幡村(よよはたむら)代々木にあった「代々木御料地」が、神宮を創設するのにもっともふさわしい場所であるとの、決定をくだした。
「『なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる』の歌あり初めて神宮設立の第一義にかなふなれ。神宮は装飾にあらずお祭騒ぎの俗地に安置すべきにあらず・・・崇高偉大かつ厳粛なる神々しき神境たることを要とすべし」(「明治神宮経営地論」)
上記が、代々木に決定された最大の理由である。都心に近く、いまのような渋谷もなかった当時には、やかましい盛り場も近くにない、深い森に囲まれた場所。それが代々木だった。
こうしてその日から、大正時代最大の国民国家的事業が開始された。皇居の森から神宮の森へ。まるで近代天皇はなくなられたのちも、森の奥に潜んでいなければならないとでもいうかのように、都心に森をつくる国民の事業が、はじまった。