特に、物語の後半、見知らぬ「祖国」に有無を言わさず連れ戻された苛立ちと不安を全身で訴える兄の姿は、ひりひりするほど切なかった。
互いを思いやりながら懸命に生きようとする一家には、それぞれ圧倒的な迫力と存在感があり、4人の誰にメッセージが託されていても不思議ではなかった。なぜ、藤元さんはそうしなかったのか。
少年の葛藤を再現したい
モデルとなった一家に藤元監督が出会ったのは、5年以上前に遡る。
当時、ミャンマーで映画を撮る監督の募集に応募し、選考に残ったものの、現地を知らないまま急ごしらえで提出したプロットに行き詰まりを感じ、思い悩んでいた藤元さん。
東京・高田馬場にある馴染みのミャンマー料理屋で常連の在日ミャンマー人らと知り合い、難民申請者を手助けするボランティアを始めた縁で一家の父親と出会った。
週末のたびに会うようになったある日、父親がぽつりとつぶやいた。
「3カ月前、妻が2人の息子を連れてミャンマーに帰った。彼らは物心つく前から日本で育ったため、特に上の子は変化に馴染めず、日々、母親に苛立ちをぶつけて荒れている」
その話を聞いてすぐにミャンマーに飛んだのは、藤元さん自身、幼い頃に両親が離婚して引っ越しを強いられた経験があり、親の都合で振り回される子どもの葛藤に強い関心を抱いていたためだった。
会ってみると、兄弟はかなり落ち着きを取り戻しつつあり、特に不適応を起こしていると聞いていた上の子も、片言のミャンマー語を口にし始めていた。
その姿に胸をなでおろす一方、少年が葛藤をどう乗り越えたのか見たいという衝動にかられた藤元さんは、再びプロットを書き始める。