玄宗の治世の前半は、「開元の治」といわれる太平の世でしたが、後半には楊貴妃を寵愛し、彼女の親族が権勢をふるうようになり、世の中は乱れはじめます。そんな中、楊貴妃や玄宗に取り入っていた節度使(辺境警備に当たった軍人の役職)の安禄山が反乱を起こします(安史の乱)。この乱は、ウイグルの支援を得て、唐が平定することに成功しますが、国勢は衰退の一途をたどることになりました。
目覚ましい成長を遂げた宋代の経済
唐の滅亡後、華北では五つの王朝——後梁・後唐・後晋・後周・後漢が、華中・華南では十国が目まぐるしく交代しました。この時代は、五代十国時代と呼ばれます。混乱に終止符を打ったのは、趙匡胤(宋の太祖。在位:960〜979)でした。趙匡胤は、960年に宋(北宋)を建国します。
趙匡胤は中国を統一し、漢民族による支配を回復させることに成功します。科挙の最終試験として「殿試」を採用して官僚制を整備、武断的な政治を改めて文治主義を進め、皇帝専制体制を築き上げます。自分も武将出身だった趙匡胤は、皇帝になった後、軍を統率していた武将たちを酒席に招き、そこで彼らに豊かな土地の支配権と引き換えに、兵権を返上するように説得します。こうして皇帝自ら軍を統率し、必要最小限の軍備にとどめる方針を取りました。そのため宋の軍事力は決して強いものではなく、地図に示したように、その支配領域は決して広くはなかったのです。
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ただし、宋の経済力は、世界史上でも稀なほどの勢いで成長した時代として知られています。
「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」という言葉があります。長江下流の蘇湖(江浙ともいう)地方が実れば中国全土の食料は足りる、という意味ですが、北宋から南宋時代に、長江下流域が経済の中心となったことを示す言葉なのです。それほど宋の時代には長江下流域の経済発展が目覚ましかったのです。
要因の1つには、10世紀にベトナムから導入された「占城米」というコメの存在がありました。これは収穫量の多い早稲で、これにより長江下流域では二期作や二毛作が可能になり、農業生産が増大します。
まだ宋の時代には、商品経済が確立し、流通が発展します。都市部ばかりか、農村部の交通の要路近くにも多くの交易市場が形成され、商業が盛んになりました。決済手段として、宋銭(銅銭)が大量に鋳造され、それは中国国内のみならず海外でも流通するほどでした。宋銭はインドでも発見されています。おそらく、アジアでもっとも使われた通貨だったのでしょう。
さらに経済活動が活発になると、貨幣だけでは間に合わず、世界初の紙幣となる「交子」が流通するようになります。これも商業の利便性向上に多いに役立ちました。
宋代は海外貿易も盛んでした。海外との貿易を監督する役所「市舶使」が置かれた泉州、明州、温州、杭州などは貿易港として栄えます。中国からは磁器や絹織物が輸出され、代わりに香料や象牙などが輸入されました。
海外から輸入された商品や華南で栽培されたコメなどは、大運河を使って華北まで輸送されました。このようにして華北と華南の経済的結びつきは一層強まります。
漢の末期から宋の時代まで駆け足で振り返ってみましたが、ここで見てきたように、時の皇帝が中央集権体制を巧みに使い、有効な経済政策を打ち出した時代の中国は大いに繁栄してきました。逆に、皇帝が幼く、外戚や宦官によって傀儡化したり、皇帝が酒色にふけってまともに執権をふるおうとしなかったりすると、一気に国勢が衰え、混乱期に突入します。中国はこの繰り返しをしてきたわけですが、裏を返せば、皇帝を絶大な権力を持つ中央集権国家において、賢帝を継続的に輩出することがいかに難しいか、ということの証とも言えるのです。