また初代・文帝が質素倹約を重んじ、「開皇の治」と呼ばれる善政を施したのに対し、その実子である煬帝は正反対の性格で、派手好きで見栄っ張りな人物だったと伝えられています。さらに贅沢の限りを尽くし、「中国史を代表する暴君」とまで評されるほどです。

 そのうえ煬帝は、三度にわたって高句麗遠征に乗り出し、ことごとく失敗。度重なる労役と兵役により、多くの農民が長期間、故郷を離れざるを得ず、田畑は荒廃。深刻な食糧危機に見舞われました。

 結局、内乱の末、618年に隋は滅び、李淵、李世民親子によって、唐が建国されました。

隋の制度を受け継いで成長した唐

 唐は隋の時代以上に経済を発展させます。 唐の都・長安は人口100万人を擁するユーラシア大陸最大の都市でした。外国人も多く訪れ、まさに国際都市でした。

 唐にとって幸運だったのは、隋が築いた政治システム、経済システムをそのまま利用できたことです。とくに李淵の後を受け皇帝となった李世民(太宗。在位:626~649)は、隋の暴君・煬帝を反面教師にして政務に励みつつ、隋が整備していた行政制度や社会インフラをフル活用しました。

 まず唐は、隋と同様に律令制を採用します。この制度は、「土地と人民は皇帝の支配に服属する」という思想のもと、人民に対して平等に耕作地を支給し、その代わりに租税・労役・兵役の義務を平等に課すというもので、それを実施するための法令体系が律令でした。

 さらに唐は、租調庸制や均田制といった税制、府兵制といった兵制、科挙制という官吏登用制度を採用しました。これらはいずれも、隋の時代に整備されていたものです。

【地図3】8世紀ごろの唐の領土 ©アクアスピリット
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 隋が用意していた統治システムを引き継いだ唐は、最初から高度に中央集権が進んだ国家として登場しました。こうして太宗の時代、経済も一気に発展します。東ローマ帝国の使者が長安を訪れ、太宗に謁見したという記録もあります。唐の勢力が強大だった太宗の時代は「貞観の治」と呼ばれています。

開元の治と玄宗、そして唐の滅亡

 その唐にも混乱が訪れます。第三代皇帝である高宗の皇后であった武則天(624〜705)が、中国史上最初にして最後の女帝となります。690年のことです。武則天は国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称するようになります。しかしこの時すでに高齢であった武則天は、長く実権を握り続けることができず、ほどなく退位。国号も唐に戻ります。彼女の死後は、また政乱が生じ政治は混乱しますが、それを平定したのが玄宗(在位:712〜756)でした。