さすがに現代あるいは将来において、武士のような私警察が地域ごとに発達するとは考えにくい。ただ、大規模生産法人が何らかの方法で系列から離れようとし、独立の気風を見せる可能性はあるだろう。

日本の農業の向かう先は

 以上、奈良時代から平安時代にかけての荘園とのアナロジーから、現代の日本農業がどのように進展していくのかを展望してみた。むろん、昔の日本と大きくかけ離れている面があることを無視してはいけない。

 たとえば、昔の日本は食糧の輸出入はほぼゼロだ。もちろん遣唐使などの行き来はあったが、国民を食わせるほどの食糧の行き来は絶無だったと言ってよい。それに対し、現代の日本は食糧自給率が38%。食糧の6割強を海外から輸入している。日本という島国の中だけで農業を捉えられなくなっており、その点が昔の「荘園」をそのままなぞることはない原因にもなる。

 また、農業が経済全体に占める存在感も違う。産業革命が起こる前は、経済とはほぼイコール農業のことだった。商売や工業もあったが、農業生産が経済全体に占める割合は非常に高かった。産業革命以前の経済学者がみな農業のことばかり語っているのは、それだけ農業が経済の根幹を占めていたからだ。これに対し、現代の日本では農業がGDPに占める割合はわずか1%程度。世界最大の農業大国であるアメリカでさえ1.2%(2014年)。農業の存在感がかつてなく小さな時代が、現代なのだ。

 もう1つ。これほどまでに農家が少ない時代はない、ということだ。江戸時代では国民の8割が農家だった。奈良時代や平安時代も同様に、大半の国民が農民だった。ところが平成29年には約182万人。国民のわずか1.4%しか農業に従事していない。従事者が少ないということは、選挙権を持っている有権者の数も少ないということであり、政治的な影響力も小さいことを意味する。

 奈良・平安時代に発達した荘園とのアナロジーで日本農業の将来をある程度見通すことも可能だが、当時と異なる環境があることも頭に入れて、未来を予想することも必要だろう。

 日本農業はどう変化していくのか。あるいは、どう変化させていこうとするのか。

 1つだけ、昔と今とで変わらぬ真実がある。「食べなきゃ生きられない」ことだ。農業が人類の生命を維持する産業であるからには、この産業が(人類が滅びる前に)滅びる心配はない。考えるべきは、どのような農業の在り方が国民の幸福につながるのか、だ。

 その中で、生産者の「働き方」も決まっていくことだろう。