だが、系列化が完了してしまうと、おそらく市場に出荷する生産法人が少なくなってしまうため、市場が機能しなくなる恐れがある。農作物の流通のほとんどがそれぞれの系列内で完結するようになり、別の系列に農作物を横流しすることは難しくなる。

 他方、流通小売は「売り場」を支配していることを強みにして、生産法人により安い値段で生産物を出荷するように要求するかもしれない。そうなると、系列に属することはかえってデメリットになるのだが、すべての生産法人が系列化してしまっていたら、もはや別の道を探ることもできず、泣く泣く要求に応えざるを得なくなるかもしれない。

 もちろん、現代の企業は社会的責任を果たすことが求められているから、そんなに人道に反することは起きないと考えたい。ただ、平和な時代が何度も破れている歴史の浮き沈みを考えると、そうしたこともどこかで頭に入れておいた方がよいだろう。

 人工知能の行方も気になる。田植えや耕耘などの作業を人工知能とロボットが果たすようになれば、もっと人手をかけずに生産しコストダウンを図れ、という圧力が系列上部からかけられるかもしれない。そのとき、生産者側はどう立ち振る舞えばよいのだろうか。

 このことも、昔の荘園に何が起きたのかをみてみよう。

 平安時代に入り、貴族は荘園への要求が厳しくする割に荘園にメリットをもたらさなくなると、荘園は次第に独立した行動が目につくようになる。「武士」の台頭だ。これは平安時代、警察(刑部省)や軍隊(兵部省)を担当するのを嫌がった貴族たちが、治安維持をおろそかにし始めて、荘園も盗賊などの乱暴狼藉に自衛する必要に迫られたためだ。

 芥川龍之介の「羅生門」は、京の都の門でありながら窃盗や暴力がまかり通り、誰も取り締まらない様子を描いているが、これは貴族たちが警察や軍隊の仕事を嫌がったために起きた現象だった。貴族が誰も警察機能を担おうとしないため、検非違使(けびいし)という法律には定められていない私警察を組織し、身分の低い人間(武士)に取り締まらせるありさまだった。

 首都でこのありさまだから地方に至っては実にひどく、自分たちで自衛しないと田畑や財産を守れなくなった。自衛組織が武士となり、やがて貴族を凌駕する存在として平氏や源氏が台頭するわけだが、それは別の話。