ここでPDCAサイクルならACT(改善)に移るところだが、科学では「観察」に戻る。結果を考察し、どうもお年寄りが多いという気づきがあったら、もう一度「観察」に戻るのだ。

 お年寄りの多い町で喫茶店を構えてしまったからには仕方ない。お年寄りに立ち寄ってもらえる喫茶店にするか、若者が遠方からでも立ち寄りたくなる喫茶店にするかだ。そこで、お年寄りがたくさん集う喫茶店めぐりをしてその特徴を「観察」したり、必ずしも若者が多くない街中にあるのに若者でにぎわう喫茶店を「観察」しに行ったりする。

 その上で「こんな工夫がなされているから流行っているのではないか」と推論し、「うちの喫茶店で最小限の予算で改良するなら、こうしたらよいのではないか」と仮説を立てる。

現実を直視せよ

 このように、科学の方法では「観察」を重視し、現実をできる限り正確に把握することを心がけている。

 むろん、科学者といえど人間だから、養老孟司氏が指摘するように「バカの壁」が存在する。自分が信じたい理論にしがみつきたくなり、見たくない現実を見ようとせず、見たい現実だけを見るということが起こりうる。

 しかし現実というのはシビアだ。「観察」をすると、うまくいかないという現実はどうしても突きつけられる。うまくいっているように見せよう、現実を捻じ曲げようとしても、観察から突きつけられる現実はシビアだ。現実を直視し、観察して現象をしゃぶりつくし、十分な裏づけのある推論と仮説を進めて、実験の精度を上げるしかない。

 科学では現実の直視、つまり「観察」を重要視するため、「バカの壁」の向こう側に気づくようになり、いつしか「あ、ムリ」と気づかされるときが来る。見たくないものも見ることを求める「観察」は、必死にしがみつこうとした自らの理論(仮説)にボロがあることも見抜き、しがみつく価値がないことを思い知らされるからだ。

 科学者にとって大切なのは、「グッドアイデア(プラン)」にしがみつくことではない。丹念で客観的な観察をもとに、妥当な推論をし、現実に根ざした「仮説(プラン)」を立てることだ。出発点は観察なのだ。PDCAサイクルは、その略語の成り立ちから「観察」が抜け落ちてしまっているのが惜しい。