――能力のある実業家と手を組んだり、才能のある人材を支援したりしたのですね。

石井 そうですね。この他、渋沢は東京商法会議所(のちの東京商工会議所)の会頭として、中央・地方の双方で人的ネットワークを形成していきました。富士瓦斯紡績の経営者として知られ、その他にも第一生命保険や伊藤忠など、さまざまな企業の設立にも関与した和田豊治なども、渋沢とつながりがあったんですね。

 なお、当時は財閥系が成長していた頃でした。非財閥の代表となる渋沢は、財閥と対立する存在として語られることも多いですが、実際は三菱の岩崎家や、安田とも交流があったのです。

 加えて、大隈重信をはじめ井上馨、伊藤博文など、政界とのパイプも強固だったようです。それは、さまざまな事業を円滑に進める上で、大きなポイントになったのではないでしょうか。

なぜ渋沢は、別の人材に経営面を任せたのか

――それにしても、なぜ彼は多くの人と強固な人脈を築けたのでしょうか。

石井 その理由として、彼が直接人と会って対話をする「面談」を非常に重視したという点がポイントになると思います。わずかな時間でも、渋沢は人と会うことを厭わず、日本橋兜町に設けた事務所によく人を招いたと言います。この他にも、彼が経営に携わった第一国立銀行本店も活動の拠点としていました。

 それだけでなく、渋沢は地方にもよく通いました。これは記録にも実際残っています。なお、その際には鉄道を利用することが多かったようです。また、郵便、電信、電話といった、当時としては新しい通信手段もあり、渋沢自身、もちろんそうした手段を取りいれ、活用していました。しかしながら、彼は会って話すことに重きを置いたんですね。そうして、会って話す中で相手の心を掴み、信用を得たのではないでしょうか。

――実際に会って、その人柄に触れてみたかったのですね。