明治から大正にかけて、約500の企業に関わった実業家、渋沢栄一。その功績から「日本資本主義の父」とされ、この国の経済を作った人と広く認識されている。
前回の記事:「渋沢栄一の『エリートらしからぬ』人脈構築術」
しかし、彼の活躍はそれだけにとどまらない。実業家と並行して、渋沢は医療や福祉、教育など、社会事業にも尽力した。その数は600を超えるとさえ言われる。
「渋沢は『近代日本を作った人』と言えるかもしれません。実業家としての功績にとどまらず、彼は社会的な土台も構築しました。そしてそこにも、彼の哲学が反映されています」
渋沢の功績をこう評すのは、國學院大學経済学部の石井里枝(いしい・りえ)准教授。同氏によれば、渋沢は実業界を退いた後、亡くなる直前まで社会事業に力を注いだという。そして、その活動にこそ「渋沢の真髄」が見えるようだ。
今回から2回にわたり、社会活動家・教育者・国際人だった渋沢の活躍と、その根底にある彼の哲学を紹介する。
今も残る、渋沢が立ち上げた福祉・医療の事業
――渋沢は、どんな社会事業を行ったのでしょうか。
石井里枝氏(以下、敬称略) 彼が行った社会事業は、福祉・医療から教育、国際外交まで、多岐にわたります。まずは、福祉・医療の分野から紹介しましょう。
渋沢の社会事業における代表であり、非常に長く携わったのが養育院(現・東京都健康長寿医療センター)です。養老院が創設されるのは1872年のことですが、渋沢は1874年から養育院の運営事務に関与します。さらに1876年から事務長となりました。
設立当初は、貧しい生活を強いられている人たちの受け入れ先として養育院が作られました。その後は、障害児や結核患者などの保護、親のいない子どもの保護なども行うようになっていきます。