――1874年というと、渋沢が34歳のときのことですよね。

石井 はい。養育院については、当時渋沢が会頭を務めていた東京会議所の管轄であったためであり、その意味では偶然関わった事業でした。とはいえ、渋沢が養育院に強い情熱を持っていたことは明らかです。

 東京会議所の一事業としてスタートし、1876年には東京府の運営となった事業ですが、財政が厳しくなると東京府は廃止の方向へ動きます。まだ設立されて10年ほどの時期です。

 この際、誰よりも存続を望み、立て直しを図ったのが渋沢でした。彼はすでに大蔵省をやめ、実業家となっていましたが、養育院の財源を確保するため、鹿鳴館(明治時代に建てられた官設の社交場)でのバザー開催や、元養育院敷地の売却資金を使って存続財源に充てるなどの施策を行ったといいます。それらが実り、1890年に市営として存続するのです。この際、渋沢は院長に就任し、亡くなるまでの長きにわたり務めます。

 当時は、今と比べて障害者や先天的な病気を持つ人への扱いはよくなかったと考えられます。その中で、彼はこの部分の改善を本気で目指したのです。

――早い時期から、その重要性を感じていたということですね。

石井 そうですね。渋沢は古稀を迎えた1909年に実業界から退くのですが、その頃から社会事業への関わりが一気に増えたため、「実業界をリタイアして社会事業に傾倒した」と言われることも少なくありません。ただ、実際は30代の頃から一貫して行っているんですね。

 たとえば、実業家としての全盛期にも、たくさんの寄付をしていた記録が残っています。滝野川小学校(東京都北区)の建築費や、飛鳥山公園(東京都北区)の開墾費、東京市深川区役所の敷地購求費などが挙げられます。また、1891年には埼玉県で洪水が起きますが、その際は罹災者の救済もしています。

 なお、養育院と並んで中央慈善協会(現・全国社会福祉協議会)の設立にも関わりました。そのほか、日本赤十字社や聖路加病院などもサポートしています。