石井 そうですね。おそらく、渋沢はエリート特有のプライドの高さとは無縁の人だったはずです。
当時、武士階級にあった人たちが商売を始めると失敗してしまうケースがありました。「士族の商法」といわれるケースです。もちろん、その理由としては単に商売に不慣れであったからということもありますが、その他にもそれまで持っていた武士のプライドが邪魔してしまうんですね。
渋沢は、武家の出ではありませんが、一橋家に仕え、その後は大蔵省に勤めるなど、エリートの道を歩みました。そういったエリート特有のプライドの高さはなかったと考えられます。
その証拠に、彼は何度も地方に赴いて演説をこなしていますし、記録からも細やかに対応していたことが分かります。高いところから見下すタイプではなかったのでしょう。それも大きかったかもしれません。
――言葉として正しいか分かりませんが、「気さくな人」だったのかもしれません。
石井 そうかもしれませんね。それともうひとつ、実際の彼の行動を見る中で、信用を高める人も多かったのではないでしょうか。
たとえば、当時の株主総会は紛糾することが珍しくありませんでした。そういったケースで、渋沢が調整役として尽力したケースが多々あります。
ただ、渋沢が株主総会の議長として紛糾する総会のとりまとめを行ったことが分かる場合もありますが、議事録からは具体的な動きが分からないケースもあります。しかしながら、手紙のやりとりや関係者の発言などから、渋沢がさまざまな利害の調整に尽力したということが分かっています。
こうしたことから分かるのは、議事録には渋沢の名前が出ていないけれど、彼が裏で動いてある人を説得した、意見が変わったという事例もたくさんあったということでしょう。渋沢は「縁の下の力持ち」を文字通り実践してきたんですね。
そういった姿を見て、渋沢への信用が増し、人的ネットワークがさらに広がっていったのかもしれません。
――ところで、なぜ渋沢はこれほど多くの人に経営を任せていったのでしょうか。