石井 それはやはり、彼が公益を追求していたからでしょう。国全体が成長するには、自分だけで経営していてもダメで、なるべく多くの人材とともに成長したいという視点があったはずです。だからこそ、彼は三井や三菱のような財閥を作らなかったのではないでしょうか。

 渋沢は、二代目三代目と、特定の家系でつないでいくような事業はしませんでした。それは、彼が掲げた「公益の追求」そのものだと考えられます。

多くの経営者を育てることにつながった、渋沢のスタンス

渋沢 栄一(しぶさわ・えいいち):1840〜1931年。埼玉県の農家に生まれ、若い頃に論語を学ぶ。明治維新の後、大蔵省を辞してからは、日本初の銀行となる第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監役に。その後、大阪紡績会社や東京瓦斯、田園都市(現・東京急行電鉄)、東京証券取引所、各鉄道会社をはじめ、約500もの企業に関わる。また、養育院の院長を務めるなど、社会活動にも力を注いだ。(写真:国立国会図書館

――これだけの人的ネットワークを作った根底にも、やはり「公益の追求」があったんですね。

石井 そうですね。その考えにより、彼は非財閥のスタンスを通したのですが、逆にそうしたスタンスでなければ、約500もの企業に関わるほどの人脈は作れなかったかもしれません。

――詳しく教えてください。

石井 同時期の財閥が行っていた事業と、渋沢が手がけた事業を比較すると、分野の広さに違いがあります。当然ながら、渋沢の方がずっと広く、紡績、瓦斯、海運、電力、製紙、鉄道、製糖、ビールから社会事業まで、多岐にわたって関わっています。一方、財閥もさまざまな企業を手がけますが、重工業、銀行などが中心で、渋沢ほどの広がりは見せていません。

 実際、三菱の4代目社長となった岩崎小彌太は、教育や政治など、いろいろとやりたいことがあっても、あくまで財閥のトップとして社長業を全うした側面がありました。

 対して、渋沢はそうした制約なく、自分の興味ある事業や重要と感じることに取り組んでいきました。そして晩年は、社会事業への関わりを深くしていきます。それは財閥のようなしがらみがないからできることであり、そのスタンスだからこそ、いろいろな人と手を組んでネットワークを広げられたと考えられます。