2014年10月号『SAPIO』に掲載された1枚の写真が忘れられない。キャプションには「元慰安婦の前で〝土下座〟をする李栄薫教授。女性たちから罵詈雑言を浴びせられる様子が新聞・テレビで報じられた」とある。
ソウル大学経済学部の李栄薫(イヨンフン)教授は、朝鮮時代末期から植民地時代までを経済史的観点から再検討し、日本による土地と食料の収奪を誇張する従来の歴史を否定してきた。
教授は、2004年には、史実に基づいて慰安婦の「強制連行」を否定したが、社会的な非難を受け、ソファーに居並ぶ慰安婦たちの前で土下座させられた。写真はその時のものであった。
こうした民族主義の呪縛が、史実に忠実であろうとする教授を一層奮い立たせ、2006年には反日史観など従来の歴史観にとらわれない新しい歴史教科書を見据えて開催されたフォーラムに参加する。
だが、ここでも反対する勢力から殴る蹴るの暴力を受けたと言われる。しかし、教授はそれにもめげず、2007年に『大韓民国の物語』を上梓し、韓国民に歴史の真実を語りかけた。
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歴史の「書き直し」が始まる
土下座のような「ひどい目にあった不快な記憶から解放されたかった」という教授は、フォーラムで「脱民族主義という観点から解放前後史を再解釈した国内外の優れた学術論文を一書に纏める編集作業を行う。
この一書が新聞や放送で大々的に報じられ、韓国社会を支えている多数派層が、「民族・民衆・階級などという彼らの日常生活と乖離した歴史によってどれほど苛まされてきたのかを、そして自由と信頼による法治の文明として明るく描かれた、新しい歴史をどれほど渇望しているのかを痛感した」という。
そして、「韓国の歴史教科書の内容は事実ではない。誇張されていたり、誤って解釈されたものが大部分だ。そのような話はすべて、教科書を書いた歴史学者の作り出した物語」だと述べる。
そこには、民族主義に占領された国民に、正しい史実を知ってもらいたいという不動の意志が見て取れる。
こうした意識で教授が上梓したのが『大韓民国の物語』である。副題は「韓国の『国史』教科書を書き換えよ」という提案になっており、民族主義にとらわれない人間を歴史の基本単位として書かれた私本・歴史物語とでも言えよう。
日本語訳の帯には「韓国内で猛攻撃を受けたベストセラー遂に翻訳!」「親北朝鮮、反日の韓国の歴史は間違っている」「ソウル大教授の歴史学者が書いた本当の韓国の歴史。これを機に『新しい歴史教科書』作りがはじまった」と書かれている。
反日教育を受け、反日政治が常態化した中で生活してきた多くの韓国人にとっては目から鱗の内容ばかりで、衝撃の本であったに違いない。
このような本を手にすること自体が反韓・親日の烙印を押され兼ねない状況の中で、ベストセラーになったわけで、韓国人には複雑な気持ちが混交したことが想像できる。
目次の中の小項目をざっと見ると、「民族主義の陥穽から抜け出でよ」「『植民地収奪論』批判」「日本軍慰安婦問題の実相」「日帝がこの地に残した遺産」などがある。民族主義の色眼鏡で歴史を見るのではなく、また善悪抜きに史実を直視しようとする視座が伺える。
本論の前に「書の扉を開くにあたり」の一文が添えられている。従来は使用する用語に気を使うあまり表現を曖昧にしたり、事前に友人に読んでもらうと「日本びいきの右派にされてしまう危険性がある」という指摘を受けることがあったなどととして、「いつの頃からであろうか。文章を書くときに自己検閲をかけるようになった」と告白し、この検閲者は「韓国の横暴な民族主義」であったと述懐する。
そして、「そのような検閲を強いる韓国の民族主義を批判し、過去50年の間、民族主義の歴史学が、二十世紀の韓国史の道筋をどれほど深刻に歪めてきたのかを晒そうとした」と出版の目的を語る。