琉球では日常食の9割を占めたさつまいも

さつまいも400年の歴史と現代の科学(前篇)

2016.11.11(Fri)漆原 次郎

改良品種が戦中戦後の命を救った

 品種の導入や改良も昔からされてきた。

 琉球地方では古く1707(宝永4)年、「古知屋芋(くちやいも)」の種を人々が求めたという記録がある。そのほか20世紀初頭までに「花松川(はなまちがー)」「花カジャー」「真栄里(めーざとー)」「暗川(くらがー)」「佐久川(さくがー)」など多くの品種が誕生している。これらは人の手を加えず自然な状態で実を結ぶ自然実生や、突然変異によるものだ。

 日本に海外品種も持ち込まれた。広島県の久保田勇次郎は契約移民としてオーストラリアに渡り、1895(明治28)年、さつまいもを持ち帰ってきた。作りやすい、土地を選ばない、貯蔵しやすいということから「三徳イモ」と後によばれ、「源氏」という品種名などで全国に普及した。久保田は1900(明治33)年、米国からも新たな品種を持ち帰っている。

 また、1898(明治31)年には、埼玉県木崎村(現さいたま市)の主婦だった山田いちが、「八房」という品種を育てていたところ、突然変異種を偶然に発見した。これは、今も「紅赤」として県内で栽培されている。さつまいもの歴史には民間人の功績が多い。

 1914(大正3)年、いよいよ人工交配によるさつまいもの育種が始まった。場所は沖縄県糖業試験場。これが世界初のさつまいもの交配育種といわれている。「真栄里16号」「佐久川13号」「那覇屋6号」などが誕生し、沖縄県内の奨励品種となった。

 国も、さつまいもを国民の重要な食糧の1つと位置づけ、品種改良の体制を整えた。1927(昭和2)年、農林省が「甘藷改良増殖試験事業」を開始。沖縄県の農事試験場で交配種子をつくり、岩手県、千葉県、三重県、高知県などの農場試験場で優れた系統を選ぶ体制をつくった。食用では「良食味・多収」が目指された。

 こうして品種改良は自然によるものから人工的なものへ、また民から官主導へと移っていった。そして、戦中戦後の食料難の時代、極多収性の「沖縄100号」などが、工業用のみならず食用として栽培され、多くの人々の命を救ったのである。

 1949(昭和24)年の作付面積44万ヘクタール、生産量600万トンを頂点に、その後は食糧事情が良くなると、さつまいもの需要は急減していった。「いもしか食べるものがなかった」という人々の記憶がさつまいもを遠ざけた面もあるだろう。

 将来のことは分からないが、さつまいもの救荒作物としての役目は終わったのである。

 だが、戦後も品種改良は続く。培われてきた多収性は保ちつつ、さらに食味のよい品種の開発が目指されていった。そして現代、人工交配が始まった100年ほど前には考えられないほど、質の高いさつまいもが誕生しているのだ。

後篇へつづく)

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